大主耕雨関係人物

大主耕雨関連の短冊などを掲載しています。上部に人の名前、下部にその作品があります。上部の名前は下部の作品へリンクしてます。


○耕雨の師

中瀬米牛(15/08/29)(伊勢での耕雨の先生)
堤梅通(15/08/29)(京都での耕雨の先生)


○耕雨の交友関係

白米棋外(実兄。俳人。野村野渡門)
大主近青(15/09/12)(子。俳人。)
大主氏香(孫?)
会田素山(秋田藩士。俳人。秋山御風門。ネットに書簡。)
瀬川露城(『耕雨遺稿』序文)→展示
矢野二道(『耕雨遺稿』選者、跋文)→展示
松浦羽洲 →展示
森山鳳羽(政治家。奈良県生。蟻兄門。『遺稿』に名)
穂積永機(俳人。江戸。『遺稿』に名)
吉原酔雨 →展示
前田伯志(俳人。東京。『遺稿』に名)
安間木潤(俳人。静岡県。『遺稿』に名)
松永蝸堂(俳人。静岡県。橘田春湖門『遺稿』に名)
今村賢外(俳人。『遺稿』に名)
島道素石?(俳人。大阪。正岡子規門。『遺稿』に名)
庄司吟風(俳人。秋田県。『遺稿』に名)※「吟」は「口金」
渡辺萎文(俳人。石川県。『遺稿』に名)


○耕雨の(伊勢の)門人

長谷川可同(同門会) →展示
中井社楽(同門会)
藤田紫濤(15/09/05)
大久保秋雨 →展示
中村杏宇(15/09/03)
尾崎梅烏(同門会)
白井素水(15/09/05)(同門会)
杉本秋草
牧田雪光?
早川素洲(15/08/30)(同門会)
潮田青邨(15/09/05)(遺稿連句参加。門弟ではない。)
小竹耕雪(同門会)
河原松声(15/09/11)(遺稿連句参加。門弟ではない。)
西村白扇(同門会)
浅沼鶴堂(同門会)
香樹園鶴年
山下桜洲(同門会)
上田菁々(15/09/12)(遺稿連句参加。門弟ではない。)
林梅月(同門会)
川合水影(同門会)

(以上の門人は『耕雨遺稿』より)

川口呉川(15/09/12)
久志本南雲
浜田椿堂(15/08/29)
嶽尾掬水(15/09/12)
竹内琴涯
川崎国弥
島田光明
杉本也堂(15/09/03)
高橋幾青(15/09/12)
豊永易行
山本三漁
吉川麦笑(15/09/12)
渡辺呂竹(15/08/30)
津田百水(15/09/11)
川崎寛助


○その他

伊藤松宇(15/08/29)(耕雨の弟子である久保田秋雨の俳諧真蹟物収集の師)
浦村香石(15/08/29)(竹川香石。補足展示「点取り俳諧資料」の所持者)
下村香雨(15/09/12)


耕雨の師




○中瀬米牛(1813〜1861)

山田浦口の人。能書家で多くの門人がいた。また俳句をよくし、夜雨亭の名を継いで五世となった。通称三郎。号は一オウ(さんずいに「區」の字)斎。



しら栄(ばえ)や消てはうかぶ島のかげ 米牛


「しら栄」は「白映え」。「白映え」とは、梅雨のとき,小雨が降りながら時々空が明るくなって晴れそうになること。
梅雨の季節、小雨が降ると消え、晴れると見える水のむこうの島の様子。

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○堤梅通(1797〜1864)

京都の人。紅屋をいとなむ。成田ソウ蒼門の俳人。名は克昌。通称は俵屋六兵衛。別号に麦慰舎(むぎのや)、花の本九世。



かいまみをわすれて鳴らす扇かな 梅通


「かいまみ(垣間見)」は、物の透き間からこっそり見ること。のぞき見。句の意味は読んだままですが、何を詠んだものかはわかりません。

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耕雨の交遊関係




○大主近青(?〜大正3年(1914))

山田八日市場の人。耕雨の子。名は重彌、重福。号は天籟堂。医術、俳諧。

『伊勢度会人物誌』には「医、俳諧」としかありませんが、医者だったんでしょうか。耕雨没の前年に耕雨より先に亡くなっています。



平居枕雨君の新婚を祝して
松竹のちぎりいざしき睦月哉


常緑の松や竹のように変わらない結婚の誓いを行った睦月(一月)である。
「睦月」は睦まじい、をかける。
「いさしき」はよくわかりませんが、そうとしか読めない。古文は苦手なのですが、「いざ」+「し」(す(する)の連用形)+「き」(過去の助動詞「き」の終止形)でしょうか。

平居枕雨は不明です。

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耕雨の(伊勢の)門人




○藤田紫濤(1849〜1908)

上中之郷(現伊勢市常盤町)の人。父藤田蟻莱、大主耕雨について俳諧を学んだ。古雅堂9世。別名に三千三、花巷、春両園。

ちなみに古雅堂8世が父の蟻莱です。



守心上人の改号を祝して
名の付(つき)て号芳(かぐわ)しうなりにけり 紫濤


守心上人は不明です。

このページの杏宇の短冊と同じく、百鱗の還暦を祝った俳句短冊も手持ちにあります。

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○中村杏宇(文久2年(1862)〜大正7年(1918))

堤世古(現伊勢市浦口町)の人。神風館16世杉本隆重の二男。教職で、のちいくつもの学校の校長を歴任した。大主耕雨に学んだ俳句以外にも和歌、狂句、都都逸をよくし、書に巧みであった。名は幸三、別号に乾外、吾心庵、菜蕪庵。

展示「点取り俳諧資料」にもある、文珠会の宗匠。『伊勢度会人物誌』には杉本隆重の二男とありますが、なぜ姓が違うのかは書いていません。中村家へ養子にでもいったんでしょうか。



磯部百鱗雅翁の還暦をことほぎて
健(すこやか)な筆のはこびや菊の主


伊勢では有名な画家、磯部百鱗の還暦祝いの句。「菊の主」とあり、このページにある他の喜寿祝いなどでも菊が俳句の中に詠まれていますので、やはり年齢の祝いには菊を送ったんでしょうか。

還暦なので、百鱗の生年から計算して明治29年(1896)の作。杏宇35歳。恐らくまだ宗匠格ではなかっただろう頃の句です。

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○白井素水(1861〜?)

伊勢古市の人。俳諧は、松阪にいた時に小津東硝(経歴不明)に、山田へ帰って耕雨に学ぶ。名前は徳得、別号に丹嶂(たんしょう)、漱玉園(そうぎょくえん)。

耕雨遺稿、句碑を作った同門会のメンバーです。没年は不明、短冊より昭和4年時点では存命。
俳句短冊はなかったので、絵短冊を展示します。俳句は見たことがないですが、この短冊のような素水の絵は時々みかけます。絵なので画号の丹嶂を使っています。



昭和四己巳秋/宇治橋渡初式之図/六十九叟丹嶂謹写


昭和4年の遷宮の時の宇治橋渡初式の絵。
以前は遷宮と同年に式が行われましたが、太平洋戦争時、遷宮が昭和28年に遅れ、昭和24年に先に宇治橋のかけかえが行われました。それ以後は遷宮の4年前に行われるのが通例となったそうです。


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○早川素洲

経歴不明。短冊裏の印に「伊勢国多気郡下御絲村濱田」とあります。
耕雨遺稿、耕雨句碑を作った同門会のメンバーです。



苔青君の喜寿を祝ひて
菊の主(ぬし)鶴の齢(よわい)を保ちけり 素洲


お祝いに菊を贈られるそのあるじは、鶴のような長寿を保っている、といった意味。
喜寿に菊を送るかどうかはわかりませんが、喜寿と菊の句がいくらか見られますので、そうなのでしょう。また、鶴と対比して、菊のようなはかないものが、の意味も入っていると思います。散ってしまう花一般にはかないイメージはありますが、菊が特にそうなのかはちょっとわかりません。

苔青は森島苔青(鶯丘居苔青)(1845〜1930)。生地は多気郡斎宮村(現明和町)、山田宮後の俳人です。師は叢々園高木實J、(明和町)竹川の人です。

このページの渡辺呂竹の短冊も苔青の喜寿祝に送ったものです。
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○潮田青邨(1847〜1924)

多気郡上御糸村(現三重県多気郡明和町)の人。家は代々庄屋か大庄屋で、明治に士族となる。漢学を江川閑雲に、俳句を京都の八木芹舎に学ぶ。明治元年に絲友社を発起して月並俳句会を催す。

青邨はどうも耕雨門ではないようですね。耕雨遺稿で耕雨の快気祝いの連句に青邨の名があります。
江川閑雲は上中之郷(現伊勢市常盤)の人。
青邨が立ち上げた絲友社の月並会は600回以上続き、青邨死後も小竹耕雪(遺稿、句碑を作った同門会所属。経歴不明)を長老として存続したようです。

山田の閑雲に習い、耕雨の連句に参加、絲友社は青邨のあと耕雨門の耕雪を長老としています。明和の人ですが、伊勢や耕雨と関係が深かったのかもしれません。




春柳(はるやぎ)をよそに澄(すみ)けり水の色


「春柳」は春に芽を出し始めたころの柳。春になって川辺の柳は芽吹いて緑に色づいてきたが、それをよそに川の水はきれいに澄み渡っている、といった意。

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○河原松声(明治11年(1878)〜昭和2年(1927))

山田の人。職歴を年代順に並べると、神宮出仕、宇治山神社社掌。度会郡教化史料調査員、巡回講師、度会郡誌編纂主。再び神宮宮掌。休職して宇治山田市史編纂嘱託、二見興玉神社社掌、神宮神部署奉賽史料調査嘱託。
漢学を十文字古青に学ぶ。国学・俳諧は独習。神典、神籍、郷土研究の篤学者として知られた。

職歴がややこしいです。住所は『伊勢度会人物誌』では館とあります。宇治の館町でしょうか。色々な本の編集にかかわり、展示で久保田秋雨の項で書いた『視昔帖』という資料の発起人でもあります。
十文字古青(天保13年(1842)〜明治37年(1904))は山田の人で神宮に仕え、漢学を鷹羽龍年に学び、国学和歌、書道をよくした。
松声は『耕雨遺稿』の主に弟子たちと詠んだ連句の中に名前がるので展示しましたが、耕雨の弟子というわけではなさそうです。



寄国祝
不二は国の宝なり鳬(けり)初日の出 七十二翁 松声


…書いてから気付きましたが、七十ニ翁となっています。松声は50歳没です。
例えば画家の磯部百鱗などは縁起を担いで実際よりはるか上の年齢を書いたため、没年より高齢の掛軸が存在するようです。ですが、それは特殊な例です。
とはいえ同名異人かといえば、もう1枚同じ筆跡の別の短冊もあり、両方俳句。松声という別の俳人も県内外に見当たらず、手持ちの短冊は伊勢の物である可能性も高い。

…せっかく写真に撮ったので、ことの真偽がわかるまでとりあえずこのまま展示しておきます(笑)。

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○上田菁々(明治8年(1875)〜)

山田常盤町の人。呉服商。正岡子規の新俳句提唱の頃より日本派に志して独学。俳誌ホコスギを経営のあと、一時は河東碧梧桐の新傾向にも参加したが、その後は派に属さず句作した。名は敬太郎、号は五風楼。

『耕雨遺稿』の弟子たちと詠んだ連句に名がありますが、耕雨の弟子ではないようです。むしろ新派の人ですね。
昭和4年存命。



たまたまに風の蛍や街夜更 菁々


偶然に風にふかれてやってきたのだろうか、夜更けの街に蛍がいるのは、といった感じの意味。


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○川口呉川(明治12年(1879)〜昭和32年(1957))

山田高柳生まれ。家は代々商家。絵は伊勢では磯部百鱗、京都へ出て竹内栖鳳に学ぶ。伊勢風俗を研究し、書は江川近情、和歌は井上頼文、俳句は耕雨に師事した。狂歌は二一転作の号で全国的に有名であった。別号に古衣庵、五瀬、十峰堂。


俳句は持っていないので絵です。呉川の絵の掛け軸はたくさん現存します。俳句は、ネットに「呉川」の号で短冊がありました。号「二一転作」の狂歌は見た事がありません。

家業が古着商だったため、古衣庵と号したそうです。
この経歴は大正五年(1916)時点のもので、以後も活躍しています。太平洋戦争時には玉城町田丸のお寺に疎開していたと聞きます。

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○浜田椿堂(1865〜?)

山田宮後の人。家は代々商家で、椿堂は教育家であった。俳諧を耕雨と、老鼠堂永機に学ぶ。徳田椿堂の名をついで二世椿堂をなのる。号は椿堂の他に葭汀、一黙庵、五午庵・独歩庵。

かなりの作品が残っているので、当時はよほど流行った俳諧師であったと思われます。字も絵もかなり達者です。



九日(ここのか)のはれに寿(ことぶ)く天高し。


九日の重陽を祝うはれの日に、空は高く澄み渡っている、といった意味。
九月九日の重陽の節句を詠んだもの。邪気を払い長寿を願って、菊の花を飾ったり、菊の花びらを浮かべた酒を酌み交わして祝ったりします(そのため後ろに菊の絵を描く)。「はれ」は、天気の晴れと、はれの日(特別の日)と。また、「天高し」は、秋に空気が澄んでいて、空が高く感じられること。

絵の作者は不明。浜田椿堂は絵もうまいので、画賛のものを、と思って選んだら、画の人は椿堂じゃないことに後で気づいた、というオチです。
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○嶽尾掬水(たけおきくすい)(明治8年(1875)〜?)

志摩郡磯部の僧。宇治山田生まれ。はじめ耕雨に習い、岩代国梁川町(現福島県伊達市)の興國禅寺で修行中、白鹿洞篁洞に学ぶ。その没後は江月庵(滋賀県高島市安曇川町常磐木)に住み、松島十湖に師事し、宗匠となった。小谷月友より嶽影の堂号をもらった。名は碩応、別号に瘠鴎(せきおう)、平凡、俳乞食、道人。

白鹿洞篁洞、小谷月友の詳細は不明。
松島十湖は静岡県浜松市の俳人、農政家。全国に門弟がいました。俳人として有名だったようで、十湖の短冊はよく見かけます。
昭和4年時点では存命です。





竹川や鶴の舞ふ影のどかなり 掬水


「竹川」という言葉から、浦村香石が竹川姓を継いだ時のお祝いの短冊かもしれません。


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○杉本也堂(安政5年(1858)〜明治31年(1898))

浦口の人。神風館16世杉本隆重の子。職業は役場の職員。御巫清直に国学を、江川近情に三体を、大主耕雨に俳諧を学んだ。名は幸治郎。別名に荘陸、荘左衛門、余香園。



田中丘高雅兄の改号を祝す
座をかへて見直す花の高さかな


田中丘高という人は不明です。

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○高橋幾青(弘化2年(1845)〜明治45年(1912))

山田一之木の人。元鳥羽藩士で、廃藩後に移住。耕雨の門人で、蕉影社を起こした。名は圭之進、辰巳。号は青松軒。

月並会に名前が見られるので、文珠会の一員でした。



わらじのみ作るも花のあろじ哉 幾青


「あろじ」は主。「花」は桜の花。
花を見たいがために、見ながらできる草鞋作りばかりしている、といったところでしょうか。


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○吉川麦笑(明治初め頃〜?)

山田岡本の人。俳諧を為田只青、耕雨に学んだ。



玉誕祝
生(おい)たちの勇まし松の雅(つね)みどり 麦笑


「雅」は常と同じ意味。ただし後半の読みがあってるかどうか自信がありません。
「玉誕祝」もよくわかりませんが、単なる誕生祝の美称でしょうか。

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○渡辺呂竹(明治4年(1871)〜昭和7年(1932)8月22日)

山田下中之郷町(現常磐町)の呉服商。はじめ山原暉水(為田只青門の俳人、〜1894)に学び、暉水死後は耕雨、浜田椿堂を師とする。大正9年より文珠会を主催し、故瀬川露城に私淑。大正15年冬に文珠会主催を津田百水に返還。以後は神路社(俳誌「神路」)の顧問となる。狂歌・情歌なども好んだ。別号は喨々園、天保堂魯智空、紀安堂、紀安麿。

調べると、思いかけず、点取り俳諧資料のところで出てきた文珠会の情報が。また書き足さないと。



鶯丘居(おうきゅうきょ)大人(うし)喜寿の賀に
爵(さかずき)に祝申さんすきくの酒 呂竹

「申さんす」は「申す」を丁寧にいった言葉でしょうか?喜寿には菊を送るようです。きくの字が喜寿にあわせて「喜久」となっています。

鶯丘居は森島苔青のことです。このページに、同人に同じ喜寿の祝いを送った早川素洲の短冊がありますので、鶯丘居についてはそちらをご参照ください。

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○津田百水(明治2年(1869)〜?)

山田八日市場生まれ。吹上住。最初、蕉風社に出吟、のちに有志と『はせをの影』を発行し、蕉影社に出吟。蕉皈社(しょうきしゃ)にも参加し、各々消滅後は同僚と文珠会を興した。百二十回で三重を離れたが、帰郷後はまた同会を受けついで経営した。俳諧は耕雨の指導を受け、棋外、寄青、河村自得にも学んだ。名前は源六。別号に五黄閣、絹丸、千草、万山、佳風園。

点取り俳諧資料の所でも書いた文珠会の創始者、主宰者です。没年は不明ですが、昭和4年時点では存命です。
白米棋外((天保3年(1832)〜明治45年(1912)))は耕雨の実兄。山田辻久留の人。詩は龍三瓦門。俳諧は藪椿舎2世野村野渡に学び、継いで藪椿舎3世となった。
喜多寄青(天保6年(1835)〜明治45年(1912))は山田中島の人。神宮に奉職。漢学を龍三瓦、書法を山本源吾に学び、俳諧は京都の堤梅通に学んだ。
河村自得については詳細不明。



朝はれて夏も静けき宮居(みやい)かな 百水


「宮居」は神が鎮座する場所。神社。

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其の他




○伊藤松宇(1859〜1943)

長野県出身の俳人。上京して俳諧椎の友社を結成し、初めて句会に互選方式を導入した。古俳書収集と研究を行い、晩年は東京小石川関口町の芭蕉庵に居住し、収集した古書を松宇文庫として残した。名は半次郎。別号に雪操居。

大久保秋雨の師という以外にも、伊藤松宇が神風館十九世藤波窓月をたびたび訪れた、という記述が『みもすそ』の序文に見受けられます。



幟(のぼり)立つ名和が一族ゆかしさよ 松宇


名和神社で詠んだ句でしょうか。鳥取県の名和神社には名和長年を主祭神とし、名和一族以下42名が合祀されています。
名和長年は、南北朝時代の武将。1333年隠岐を脱出した後醍醐天皇を船上山(現鳥取県東伯郡琴浦町)に迎えて討幕軍に加わり、建武新政では要職をつとめ、のち足利尊氏に敗れて戦死しました。


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○浦村香石

補足展示「点取り俳諧資料」の持ち主ですが、短冊を発見したので掲載しました。詳しくはそちらの展示を見てください。

いつかわかりませんが、途中で竹川に姓を変えています。



賀御安産
莟(つぼみ)から勢(いきおい)見えて冬の梅 香石



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○下村香雨

経歴は不明です。浦村香石宛の俳句短冊があるので掲載してみました。
姓がわかるのは、国会図書館蔵の宇治山田で編まれた『昭和俳家句集』に名が載っているからです。



浦村香石君の五五を祝して
梅が香に運びはじめや百度石 香雨


「百度石」は社寺の境内で、百度参りの往復の標識として立てられている石。
意味がはっきりとはわかりません。55歳は特別な年齢ではないので、特別なことはしないと思います。新年に百度参りをするといったことがあるんでしょうか。

点取り俳諧資料所持者の浦村香石に送った祝いの句です。
後竹川に姓を変えますが、55歳のこの時点ではまだ改姓していないことがわかります。
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(おわり)

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