点取り俳諧

耕雨も関係する伊勢の点取り俳諧資料がいくらか出てきたので、それらを見ながら、当時の伊勢の俳諧の様子と、点取り俳諧の方法などを見ていく。

・点式表

〈写真1〉


文珠会という俳句の会の点式表である。
月次句会で誰がどれだけ評点を取ったかという表が第140回から第159回まで、20回分書かれている。

〈写真2〉


この冊子上での最初の第140回が明治44年4月に行われている。
表を見ると、下に評価される人の名が巨杉、卯月、香石、寄水…と書かれている。
この回の参加者は10人である。
右端は評価した人である。最初のページに巨杉評、卯月評、…以下5人、次のページに米山評以下残り5人の名前があり、最後に宗匠評とある。
つまり、点は宗匠だけがつけるのではなく、参加者全員が自分以外の人の点をつける、という方式である。

この第140回が明治44年4月に行われたということは、月に1回として単純計算すれば11年7か月前の明治32年9月に始まったことになる。
ただし、月次句会は正確に毎月行われたわけではない。この点式表は最後の第159回が大正2年6月なので、27か月間に行われた月次会は20回である。よって、初回の開催はもっと前だと思われる。

〈写真3〉


冊子の最後に点数が書いてある。
「十内」は二重丸のことだと思われる。
上位から十番以内、というような意味だろうか。

成績による景品はハガキであった。
「点〆」とあるから、天、地、人、十内は月ごとの1〜4位だろうか。
ささやかな景品である。
こうして手に入れたハガキでまた俳誌に投稿をするのだろう。


・点数計算

参加者が評をする時は、良いと思った俳句を15個選ぶ。
そのうち最も良いものから順に天、地、人、二重丸(十内)を5つ、残りが丸となる。
宗匠は天地人以外は二重丸、丸の個数に制限はないようである。
また、後で書くが、宗匠は1人ではないので、複数宗匠の合計評かもしれない。

点数の計算は、前掲、表紙裏の点数などから考えて、

丸2点、二重丸3点、天10点、地8点、人6点。
総合点は奇数点が無いことから、奇数点は繰り上げ(35点なら36点に)。

基本的にはこれで良いと思われるが、計算より少し点数が高い場合が多い。
計算違いではなさそうなので、何か特別な加点があるようである。
また、点数が全然違ってくることもある。
(この第140回も計算と全然合わない。恐らく宗匠の点数の計算が違う。)

・俳句の評点

では、実際の俳句に対しての評はどのようになされたか。
次は「点式表」にもある、第144回目の俳句に評点をつけた冊子を展示する。
丁数が多いので第144回目の3つの題のうち最初の題「初嵐」の部分のみ。

〈写真4〉


第144回は参加者が14人。俳句数は写真にあるお題「初嵐」が74句、「促織」が63句、「稲の花」が75句の合計212句。1人15句ほど提出するようである。

見えにくいが、俳句の上に○や天地人を書く。天・地・人は三題通して1つ。
評者は書いてないが、天地人を誰の作品につけたかを「点式表」と照らし合わせれば、これが宗匠の評だとわかる。

点がついた俳句の下に、赤の別筆で作者名が書いてある。
これは評点をつけるときに先入観をなくすため、誰の俳句かわからないようにし、後で名を書いたからだと思われる。

同回の「点式表」もあわせて以下に展示する。

〈写真5〉




他に「点式表」には載っていない第165回(大正3年4月)の評点冊子が2冊ある。
全く同じ俳句の評で、「耕雨宗匠撰」と「杏宇宗匠撰」の2冊である。

〈写真6〉


杏宇は中村杏宇(文久2年(1862)〜大正7年(1918))で、耕雨門の俳人である。

とあるページの評点を掲載したが、上が耕雨で下が杏宇。耕雨は10個、杏宇は5個評点をつけているが、2人がともに点をつけている俳句は1つのみ。師弟で評点が全然違うのがおもしろいところである。

・資料の所持者

一群の資料はどこから出たのかわからない。
しかし、写真4の表紙に「香石君行」とあり、展示してない冊子にも「香石君」などとあるので、この俳号香石という人がこの資料の持ち主だということがわかる。
今まで展示した資料でも名が確認できると思うが、その中でも写真2の2つ目の丁の左端、第百四十一回の下に「浦村香石君宅開巻」とあり、姓が「浦村」だったことがわかる。他の丁に「新町香石君」ともあるので、浦村は地名ではない。


・浦村香石

この香石は人名事典等には名がなく、どんな人物かはわからない。
紹介する資料群の中で一番古いものは、明治28年の香石の俳句を書いたものである。

また、手持ち資料に「神路」という俳誌がある。伊勢を中心に三重県から多数の俳句の投稿がある雑誌である。
歯抜けながら、その第44号(昭和5年8月号)から81号(昭和8年9月号)まで数十冊である。
81号の最後に休刊のお知らせがあるので、多分これで廃刊となったのだろう。
この雑誌の号の最初、中程、最後あたりを見ると、まんべんなく「山田 香石」の名が見える。

香石は山田の人で、活動期は耕雨の弟子にあたる人たちと同じ時期と思われる。
明治中期あたりから俳句を始め、展示した点式表の月次会には皆出席、神路にもコンスタントに投稿を行など、途切れずずっと活動を続けている。よほど俳句が好きな人だったのだろう。

・文珠会

この月次俳諧が行われた、文珠会とはどのような会だったのか。
いくらか調べてみた。


・文珠会の宗匠

文珠会の宗匠は主に耕雨と杏宇であったと思われる。
前掲第165回の評点冊子が耕雨と杏宇であった。
また「点式表」を見ると

第148回は「杏宇宗匠」「耕雨宗匠」の二人の評。
第154回は「可同君評」「杏宇君評」「宗匠撰」の三人の評。
第157回は「杏宇宗匠」「宗匠撰」の二人の評。

となっている。「宗匠撰」というのは耕雨のことだろう。
他の宗匠、可同と杏宇も耕雨門なので、耕雨一門指導の俳句会と言えそうである。


・文珠会のその後

実は、「点式表」には第159回以後の月次句会が3回分掲載されている。
次の3回分であるが、ただし、正式な物ではないようである。

第163回−空白ページをかなり挟んで最後の方に書かれている。
第166回−墨で書きなぐられている。
第167回−評点がしてない。

「点式表」に正式に書かれた第159回が大正2年6月。第163回の開催年月が上記のように大正3年1月、また、前掲した2冊の評点冊子の第165回が大正3年4月。
毎月行われるわけではないので、これはおかしくない。

ただし、第166回が大正6年1月、第167回がなぜか戻って大正5年12月と書かれている。
しかも、第165回から3年近くたっている。

これは、大主耕雨が大正4年11月に没したことに関係があるのではないかと思われる。
第165回を最後に、耕雨は活動ができなくなり、それとともに文珠会は途絶したのではないか。

第166回、167回も書き方からもきちんと会が行われたとは思えない。
このまま文珠会は終了となったのだろうか。


・文珠会の構成員

文珠会の参加者として、まずは第140回〜第159回(計20回)の文珠会の月次会に参加した人の名前と出席回数を上げる。
(カッコ内は出席した回)

巨杉 20回(140−159)
香石 20回(140−159)
秀山 20回(140−159)
米山 19回(140−155、157−159)
翠甫 19回(140−151、153−159)
蕉月 19回(140−157、159)
虎笑 16回(142−155、158、159)
卯月 14回(140−144、149、152−159)
寄水 13回(140−147、149、150、152、154、157)
豊水 11回(140、141、145−148、151−155)
芝青 10回(149、150、152−159)
幾青 07回(140−142、145−148)
素子 07回(141、142、144、150、152−154)
百水 06回(141、143、144、148、151、154)
抱水 06回(141、155−159)
丘舎 06回(151−156)
如雪 05回(141、142、144−146)
浦月 05回(141、142、143、149、152)
素泉 03回(141、143、150)
月峯 03回(143、144、145)
夢酔 03回(144−146)
鳴水 03回(155、156、158)
掬水 02回(141、142)
的水 02回(157、159)
孤帆 02回(158、159)
梅友 01回(141)
鷺外 01回(141)
香汀 01回(141)
柳暢 01回(143)
月香 01回(148)
苔青 01回(148)
光月 01回(148)
酔郎 01回(149)
志津子01回(158)
桃村 01回(159)

主要メンバーの中に、浜崎豊水(〜大正15(1926))、高橋米山(明治23(1890)〜)、高橋幾青(弘化2年(1845)〜明治45(1912))など、人名事典など他の資料で名を確認できる人がちらほら見える。

このうち、皆出席の秀山の短冊が手持ちにある。
以下に展示する。

〈写真7〉


短冊の裏に「文珠会創始者 瀧本秀山」とあり、この秀山が文珠会の創始者であったことがわかる。


また、掲載資料のかなり後に出版された『三重俳家自伝』(昭和4年5月、春暁社)という本の「津田百水」の俳歴に以下のようにある。

(前略)同僚と協議して文珠会を興し百二十回にして当地を去り旗旅の身となりしが帰郷後亦同会を受けつぎ引続きて同会を経営す。現今二百六十回に垂んとせり。(後略)

津田百水も草創のメンバーで、第120回で伊勢を去ったが、また戻ってきて文珠会を経営し、260回近くになろうとしているという。会は続いていた。
上記文珠会参加者からわかるように、百水は第140〜159回の間にも6回参加しているので、時々帰ってきていたのだろう。

第167回(大正5年12月?)〜第260回近く(昭和4年5月)まで、12年(144か月)強の間に催された回数は90回ほど。そこそこの頻度で行われている。
耕雨の死で途絶、失速した会は百水の帰郷によってか、再び盛り返し、その後もずっと続いたということになる。

・俳句小冊子

最後に俳句が書かれた小冊子を、少し多いが全丁掲載する。

〈写真8〉


この冊子は一群の資料の中に入っていたものである。
これ以外にも同様の形の冊子を時々見ることがある。今まではよくわからないのでスルーしていたが、この形の資料がどういうものなのか、考えてみたいと思う。

同様の冊子があと3冊ある。
同じく耕雨評のもの、耕雨と親しかった名古屋の矢野二道(※前展示参照)評のもの、井圃園という宗匠評のもの。
これらも比較しながら見ていく。


・内容

冊子はまず表紙に「初しぐれ外ニ題」「何事山楼主人評」とある。何事山楼主人は印から耕雨のことだとわかるが、初めて聞く号である。

中には俳句が15句+耕雨1句が掲載されている。
そのうち蕉月、百水、鷺外は文珠会の点式表に名前がある。
最後に明治28年とあり、点式表よりだいぶん前の資料である。


・評点

各俳句には印が押されている。これが恐らく評点だと思われる。
最初から12句は同じ印が2つ。最後の3句はそれらとは違う印が3つ押されている。
他の3冊子をみると、

耕雨評−最初の10句に印2個、次の2句に印3個、最後の3句に印4個。
二道評−最初の12句に印1個、次の5句に大印1個、残り人位、地位、天位と朱書き。
井圃庵評−最初の20句に印2個、次の8句に別印2個、次の10句に別印2個、次の8句に印3個、次の1句に印4個、最後の1句(自句?)に別印3個。

よって、後にいくほど高評点の句が書かれている。
書かなかったが、二道、井圃園評のものは俳句を書くスペースも違う。
例えば二道評のものは最初12句は半丁に1句が書かれるが、その後の句は1丁に1句である。

二道評のものの最後が、人、地、天である。そして、耕雨評のもの2冊子はともに最後の3句だけが印の数が違う。恐らくそれら3句が人、地、天ではないかと思われる。

最後の句が一番いいものだという証拠として、耕雨評、二道評の3冊子の最後の句は、資料の所有者であった香石の句となっている。
(井圃園のものは特殊な書き方がしてあり、俳句の作者がわからない)


・これら冊子の推測

写真の冊子に「初しぐれ外ニ題」とあり、もう1つの耕雨評の冊子に「芭蕉外ニ題抜巻」とある。この三題方式というのは文珠会の月次句会と同じである。

また、冊子は明治28年のものだが、宗匠が同じく耕雨で参加者も明治44年以後の「点式表」と同じメンバーを見ることができる。
よってこれらは、初期の頃の文珠会の冊子なのではないか、と推測できる。

耕雨以外のものも含め、これら冊子は、月次句会が催された後、宗匠の評点が良かったものを、記念にこのような形でまとめたのではないだろうか。「抜巻」とあるのを見てもそれがうかがえる。

冊子は筆跡や宗匠の印があることから、わざわざ宗匠がみずからの手で書いたものである。
耕雨は裕福だったため、お金を稼ぐ必要はなかった。しかし職業的な俳諧宗匠は生活するため色々な事をしなければならなかっただろう。
自筆でこのような冊子を作るのも、そういった宗匠の仕事の1つだったのかもしれない。




修正と補足(15/09/07)

新たに分かったことの補足。以後も修正・補足があれば逐次掲載します。


・文珠会

上記で文珠会が失速し、津田百水の帰還によって?復興した、ということを書きました。
しかし、失速と百水の帰還の間、文珠会を主催した人物がいました。それが渡辺呂竹です。
百水のことでも引用した『三重俳家自伝』(昭和4年5月、春暁社)の呂竹の項にそれに関する記述がありました。

(前略)大正九年より文珠会を主宰し専ら故無名庵露城翁に私淑せり。仝十五年冬文珠会を旧宰の津田百水氏に変換し爾来神路社の顧問として斯道に尽瘁せり。(後略)

この記述によって、文珠会の穴を埋めることができます。
まとめると、

文珠会は津田百水を中心に瀧本秀山らによって発足し、宗匠を耕雨として発展。月並会120回以後は中心である津田百水が外遊。その後、恐らく耕雨の死によって大正3年あたりから一時失速。(耕雨は大正4年没。文珠会のもう1人の宗匠中村杏宇も大正7年に没。)しかし渡辺呂竹が大正9年から主宰し、文珠会は復興。そして大正15年に百水の帰還によって文珠会の主宰を返還し、月並会は少なくとも昭和4年まで260回ほどは続いた。

となります。


・文珠会の評点方法

伊藤松宇を調べている時に、「初めて句会に互選方式を導入した」とありました。互選方式の具体的な方法の記述はありませんが、文珠会の評点方法がまさしくこの「互選方式」ではないでしょうか。
展示「大主耕雨関係人物」の松宇ところにも書きましたが、松宇は大久保秋雨の師という以外にも、神風館十九世藤波窓月をたびたび訪れていたそうです。よって文珠会の評点方式は、伊勢にも関わりのあった松宇の影響かもしれません。

ただし、松宇の提唱により、互選方式が全国的に流行しただけかもしれないので、そこら辺はまたおいおい調べる必要がありそうです。

点取り俳諧資料で、表紙に第何冊目などの表記が無いにもかかわらず、点数表が明治44年の月並会第140回からはじまっているのも、もしかするとこの140回から互選方式を取り入れたせいなのかもしれません。




(おわり)

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