『耕雨遺稿』より見る大主耕雨


何事も
何事もいはず初日の神路山 耕雨




大主耕雨(1835〜1915)は、主に明治後期〜大正初期に活躍した、伊勢市の俳句の大家です。
全国的に有名で、地元に弟子がたくさんいました。このページでは、その大主耕雨とその周辺の作品を、没7年後にできた『耕雨遺稿』を中心に見ていきたいと思います。


・大主耕雨について

大主耕雨、通称は織江、号は為豊園、半田居士。
耕雨は天保6年(1835年)に伊勢の辻久留に白米家の四男として生まれました。
その後八日市場の大主鶴郊(大主光貴)の養子となり、大主家を継ぎます。
6歳の頃に「蒲公英(たんぽぽ)や水もかけぬにひとり笑(えみ)」という句を詠んで養父を驚かせたといいます。
俳句は浦口の俳人、中瀬米牛に習いました。ちなみに今まで出てきた地名の辻久留、八日市場、浦口はどれも外宮の西隣の近所にあります。

16歳のころに大主家の家職を継ぎ、外宮に出仕します。
26歳ごろ、京都に出て、そこで堤梅通について、俳句を学びます。
28歳ごろには俳諧熱心につき、二条家の俳諧の席に加えられています。
この後、はっきりとした年代は不明ですが、伊勢に帰ったようです。
維新後の明治4年(37歳)、神宮の改正で位職が解かれますが、明治14年(47歳)に再び外宮の神官に任じられ、明治26年(59歳)に辞職するまで勤めています。明治4年〜明治14年のことはわかりませんが、その間もやはり神宮に関する職にあったと思われます。

耕雨が俳人として活躍したのは、この明治26年の辞職後からでした。
俳諧宗匠としてたくさんの弟子を持ち、また、色々な俳誌にも登場します。
例えば、明治33年に東京で出版された『明治新撰 俳諧百人一首』にも百人のうちの1人として登場します。
そして大正四年に没します。辞世の句は「須弥壇に飛び込みにけり秋の蝶」でした。


以下、何枚か耕雨の短冊を紹介します。


鳰の巣や



長島輪中はこぞの水害にかゝりていまだ堤防の修理全からず。
 鳰の巣やたゞよひのこる人の家 耕雨




桑名の長島輪中が水害にあった時の作。

輪中は辞書によれば「洪水から集落や耕地を守るため,周囲に堤防を巡らした低湿地域または共同村落組織。」

普通は輪中といえば、この長島輪中を指すようです。
いつのことなのかは資料がなく、ちょっとわかりません。
更[号?]賀集上木中其外雅老の■■せられしをいたみて
冬からの力ほいなし落椿(おちつばき) 耕雨



■■の読みはわかりませんが「亡くなった」という意味です。
「ほい」は「本意」のこと

「其外」は実兄の白米棋外でしょうか。
もしそうであれば明治45年の作となります。
冬からの



風もはれ



神前 敷布に三十五年うめの花 耕雨



耕雨は16歳から神宮へ出仕しています。
きっちり35年なら51歳、明治18年(1885)の作となります。
長谷川秋雨君の世継の誕辰(たんしん)を祝て
産声(うぶごえ)のことにめでたし太郎月
 耕雨



「誕辰」は生まれた日、誕生日。「太郎月」は1月の異称。春の季語。

「世継ぎの男の子の産声のあがったのが、男をあらわす「太郎」月にというのは、とりわけてめでたいことである」といった意味。



「長谷川秋雨君」となっています。久保田秋雨、または長谷川可同のどちらかと間違い……かと思いきや、もう一枚「長谷川秋雨君」と書いた耕雨の短冊があります。

ちょっと調べてみると、詳しい経歴はわかりませんが松阪に「長谷川秋雨」という四条派の画家が存在するようです。まぎらわしいことこの上ないですね(笑)。
産声の






『耕雨遺稿』

『耕雨遺稿』は序や跋によると、耕雨の弟子たち同門会が遺族と相談して没の7年後(大正11年)に編集した、ということです。
本の構成は掲載順に、

序、耕雨の句3つ(カラー1丁半)、俳句、連句、文、跋

となっています。俳句と連句がメインで文は2つのみです。
以下に、いくつか写真を載せます。


耕雨遺稿


まず、この『耕雨遺稿』を出版した同門会の作品から見ていきます。
本の最後にそのメンバーが載っていますので、以下に挙げます。

長谷川可同、久保田秋雨、中井社楽、早川素洲、林海月、小竹耕雪、尾崎梅烏、西村白扇、浅沼鶴堂、白井素水、山下桜洲、川合水影、大主氏香

このうち、最初にとりあげなければならない人物は、久保田秋雨です。
なぜならこの久保田秋雨が『耕雨遺稿』発行した同門会を組織し、主催した人間だからです。
メンバーの掲載前に、以下のようにあります。

伊勢国山田市河崎町久保田初蔵方
文音所 同門会

この久保田初蔵というのが久保田秋雨のことです。




乙鳥の



・久保田秋雨

秋雨は明治19年、伊勢の河崎生まれ。
河崎は江戸時代、物資の集散地で「伊勢の台所」と呼ばれてましたが、維新後後は産業構造の変化にともない、このころはだいぶ衰退していたようです。
名前は初蔵。号は秋雨の他に白頭子、殿春園。大正9年の『東海雅人銘鑑』という本には実業家とあります。

明治38年(20歳)に耕雨の門に入り、師没後は同門会を組織。
同門会は、この『耕雨遺稿』以外にも、師没の翌年大正5年5月に現伊勢市楠部町にある松尾山観音寺に句碑を建てています。
また、秋雨は例年耕雨忌を主催したそうです。

秋雨は現在も続く俳誌「筑波」に投稿していた縁か、その創刊者の伊藤松宇のもとで、俳諧の真蹟物収集につとめました。

収集に関しては『視昔帖』という資料があります。伊勢の書画など古筆跡を持ち寄り、定期的に展覧会を行った、その記録です。出品目録と写真、作者の履歴が掲載されています。大正4年にはじまり、昭和7年の第20回まで掲載されています(筆者所持のものは18、19回が抜けている)。

その第9回(大正12年)から第17回(昭和6年)の出品者の中に久保田秋雨の名前が見られます。それら出品物はほとんどが俳諧に関するものです。

秋雨の名前は『視昔帖』で昭和6年までは確認でき、また昭和9年の『伊勢渡会人物誌』に掲載されていないことからその頃も健在だったと思われますが、没年はわかりません。







乙鳥や蘇民将来子孫門



「乙鳥」はつばめのこと。
「蘇民将来子孫門」は門につるすしめ縄に書く言葉。災厄を払い、疫病を除いて、福を招く御利益があるそうです。

「蘇民将来〜」のしめ縄の上に燕が巣をつくっている、ということでしょうか。
大正2年の一枚刷り「三重県現代雅人名鑑」という資料があります。
これは、当時三重県で名のあった画家や書家、俳人や歌人などの文化人をリストにしたものです。
この中の「俳諧風流」の筆頭は当然ながら大主耕雨ですが、それ以外にも同門会のメンバーの名があがっています。
それは長谷川可同、中井社楽で、この2人が同門会の中では有力な俳人だったということがわかります。

この2人のうち、社楽の作品は所持していないので、長谷川可同の作品を2点ここに載せます。


・長谷川可同

生没年は明治元年(1868)〜大正14年(1915)。
可同は松阪の大商人、長谷川家本家の11代当主です。

名は定矩(さだのり)、通称は治安郎兵衛、幼名は定次郎。俳句を耕雨に学び、俳号を送老園可同、絵を磯部百鱗・川端玉章に学び、画号を応章といいました。漢学を大林省軒に、茶を裏千家十二代又[玄少]斎(ゆうみょうさい)、十三代目円能斎に学びました。また、餅に関するものを多数集め、別に家を建てて収蔵・陳列し、餅舎(もちのや)と号しました。


御題 遠山の雪をことしの恵方哉 可同



「御題」とは、年始に宮中で行われる歌会始の勅題のことです。
この歌会始は明治7年(1874年)から一般国民からの詠進も広く認められるようになり、明治15年(1882年)以降は、天皇の御製や一般の詠進歌が新聞などで発表されるようになりました。
この勅題で詠んだ歌や俳句の短冊はよくみかけます。

この「御題」は、大正六年の「遠山雪」だと思われます。

恵方とは、その年の福徳を司る神である歳徳神の在する方位をのことで、その方角に向かって事を行えば、万事に吉とされるそうです。
遠山の



楊なる



楊なる鳴子の音も神無月 可同



楊の葉ずれの音も、神無月(10月)には枯れて音がしない、といった意味でしょうか?
はっきりとした意味はわかりません。


次は序、跋を書いた瀬川露城、矢野二道の作品を展示します。
この2人は同門会に序、跋を頼まれるぐらいなので耕雨に関係が深かったと思われます。

特に跋を書いた矢野二道は『耕雨遺稿』の選者でもあります。
跋によれば『耕雨遺稿』に掲載する作品の選定を頼まれ、荷が重いということで断ったが、結局は耕雨と「旧交浅からざりし故をもて」引き受けた、とあります。


・瀬川露城

生没年は嘉永3年(1850)〜昭和3年(1928)。
兵庫県出身。
森山鳳羽から庵号俳禅窟を譲られる。
西園寺公望も露城に師事した。
無名庵十五世襲号。

無名庵は滋賀県の義仲寺にある芭蕉が住んだ草庵で、その歴代の庵主のこと。
本文中にも「粟津本廟時雨会」(粟津本廟は粟津義仲寺の芭蕉廟のこと)に詠んだ俳句が収録されています。





炎天に牛のきげんをそこねけり 露城



炎天に



しぐれ得て



・矢野二道(有無庵)
生没年は明治2年(1869)〜昭和3年(1928)。
名古屋の人。
吉原酔雨、松浦羽洲門。

以上、二道は『俳文学大辞典』などにも載っていないのでネット情報です。





しぐれ得て立つらねけり園の松 二道





最後に『耕雨遺稿』に名のある、耕雨と交遊のあった俳人を展示します。
『耕雨遺稿』に名前のでてくる俳人は以下です。
(不明・展示済みの作者を除く)


俳句の題からは以下。

・「羽洲老米寿に」(松浦羽洲)
・「鳳羽老の古稀を祝して」(森山鳳羽)
・「永機老の三十年振に草扉を叩かれしかば」(穂積永機)
・「酔雨老を与可楼に伴うて」(吉原酔雨)


連句をともに詠んでいる作者は以下。
最後に掲載されている連句は、耕雨の(病気の)「全快祝」として、地元伊勢の多数の弟子達と連句を作っていますが、この部分は今回は除きます。

・堤梅通
・前田伯志
・森山鳳羽
・松浦羽洲
・安間木潤
・松永蝸堂
・今村賢外
・島道素石?
・庄司吟風
・渡辺萎文


この中で俳句の題にも連句にも名の出てくる松浦羽州と森山鳳羽は師弟の関係。その森山鳳羽は序の露城の師で、松浦羽州と吉原酔雨は跋の二道の師なので、耕雨はそのグループと交友が深かったことがわかります。

それは主に松浦羽州と吉原酔雨を中心とする名古屋のグループです。この2人は明治初期の名古屋俳壇を二分したそうです。他は所有していませんが、この2人の短冊がちょうど手持ちにありますので、それを展示して今回は終わりにします。

他の作者の作品も手に入れたらまた展示追加しておきます。
耕雨の師の中瀬米牛と堤梅通は手に入れておきたいところです。


かけたかと



・松浦羽州

生没年は文政9年(1826)〜大正3年(1914)。
名古屋の人。古着商。
名は有秀。通称は吉島屋九右衛門。別号は徂康・六松園。
西川芝石芝石門。また、伊東而后・永井士前・鶴田卓池にも師事。

「州」だったり「洲」だったりしますが、俳文学大辞典は「州」となっています。短冊は「洲」です。






かけたかとなく郭公(ほととぎす)葵(あおい)の日 羽洲



「かけたか」はホトトギスの鳴き声とされる「テッペンカケタカ」。
ホトトギスは夏の季語。
「葵の日」は葵祭の日。5月15日。
・吉原酔雨

文政2年(1819)〜明治26年(1893)。
名古屋藩士。
名は東海(はるみ)、通称は数馬・竹三郎。別号は竹意庵。
俳諧を父吉原黄山と伊東而后に学ぶ。

酔雨は耕雨がちょうど活躍し出す明治26年に亡くなっているためか、共に詠んだ連句は収録されていません。





野辺は無しそらは雁(かり)なくゆふべかな 酔雨



字面以上の意味はちょっとわかりません。
野辺は無し



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