久保田秋雨

久保田秋雨のことがいくらかわかったので、少しまとめておこうと思います。
秋雨については『耕雨遺稿』より見る大主耕雨の「久保田秋雨」の項もあわせてご参照下さい。

まとめようと思ったきっかけは、ヤフオクで久保田秋雨の手紙が出品されているのを見かけたことでした。
正直買おうかどうか迷ったのですが、その商品紹介ページに、自分のHPの久保田秋雨の説明が使われているのを発見しました。それでこれも何かの縁だと思い、落札して一回秋雨についてまとめておくことにしました。

しかし、こんなマイナーな俳人の手紙に、入札者がもう一人いたのがびっくりでした(笑)。

今回は、いくらかわかった久保田秋雨の経歴その他と、落札したこの手紙、そして久保田秋雨宗匠の落巻を1冊発見したのでこれを紹介しようかと思います。

それでは、新たにわかった経歴から。



久保田秋雨の経歴その他


秋雨は明治19年(1886)12月24日、増井要助の長男として生まれた。名は初蔵。号は白頭子、殿春園。実父の増井要助について出身地ほか、詳細は不明。そして明治28年9月25日、久保田寿治の養子となった。

秋雨の養父寿治は、度会郡長屋村(現伊勢市御薗町長屋)の大東権八の四男で、村田仙右衛門家(木造氏とともに河崎の二大有力商人)に奉公した後、久保田五兵衛家の養子となった。久保田家は代々伊勢春慶を扱う伊勢河崎の漆器屋である。そして明治28年6月、なにがしかの理由があって家業を子に譲り、寿治と改名して別に一家を起こした。この時起こした別家の後継ぎとして、寿治の養子となったのが、久保田秋雨であった。
久保田寿治は明治37年(1904)11月17日に、その妻(とくえ)は昭和13年(1938)1月8日に亡くなっている。

秋雨は別家の後継ぎだったので、通称が五兵衛ではなく「初蔵」だった。職業はやはり本家と同じ伊勢春慶の漆器屋だろうか。秋雨は昭和42年(1967)12月7日、東京で没した。享年81。別ページの時点では没年不明だったが、結構長生きしたようだ。

秋雨の最初の妻は「りえ」といい、明治38年(1905)5月14日に嫁ぎ、明治43年(1910)には24歳で亡くなっている。この妻との間に息子がいたがやはり早世で、21歳で亡くなっている。後妻は「しう」といい、秋雨の亡くなった翌年の昭和43年2月6日に74歳で亡くなっている。


・殿春園

秋雨の別号「殿春園」は、本などに記載はなく、一枚のみ所有している秋雨の短冊の裏に、鉛筆でちょろっと書いてあったことから知りました。とある方に「殿春園」所蔵の掛軸を見せてもらったことがあります。その方は「殿春園」を検索して私のページがヒットしたらしいです。ただ、私はその名を聞いても全く覚えていませんでした(笑)。
秋雨所蔵だった古美術品がまた出てくるかもしれないので、殿春園の名は覚えておいたほうがよさそうです。


・糸印煎餅

播田屋の糸印煎餅は、木造家のバックアップにより売り出されたものらしいですが、聞いたところによれば、その播田屋の家と木造家、久保田家の3人は骨董仲間だったようです。
ただし、いつのことか詳しい時代は聞いてません。秋雨の同時代か前か後か。いずれにしろ、秋雨の俳諧古跡収集の趣味は、そのことと関係しているのかもしれません。


・松尾観音

なぜ松尾観音という場所に(秋雨主導で建てられた)大主耕雨碑があるのかと思っていましたが、松尾観音はもともと河崎の木造氏のお寺だったんですね(そして現在は木造氏が住職をしている)。その関係で、耕雨句碑以外にも河崎に関連する碑が建てられています。
松尾観音の入口左にある「祐天上人筆の六字名号碑」は河崎の酒造業者の森島文平のために建てられたもの。少し行くと右手の碑群の一つに、河崎の俳人洒高の句碑があります。奥左手の築山には耕雨句碑と、ほかに金森得水の歌碑があります。得水碑は、得水の実子で河崎の村井家の養子となった村井常之が建てたものです。



久保田秋雨の手紙

封筒
(表)
京都市高辻通猪熊東
小川寿一様
貴酬
(裏)
三月五日
三重県宇治山田市大字河崎町百八拾貳番地
久保田初蔵

○小川寿一という人物の詳細は不明。
○手紙が書かれた時代を考えると、まず3銭切手が貼ってあり、消印は「■0.3.5」(■は読めない)となっています。封書の郵便料金が3銭なのは明治32年〜昭和12年です。また、本文に大正15年以後の雑誌「黄橙」が出てきます。よって昭和10年3月5日の手紙とわかります。消印は「10.3.5」となります。
○「貴酬」とありますので、相手の手紙に対する返事です。


手紙
(本文)
拝復御申越の趣、委細拝承致候。実は二月下旬、穎原先生よりも
御来書有之、勝峰氏よりも必要な写真一向送りくれずとの事にて
又仝氏(勝峰氏)よりも小生へ向け一向便りも無之、不用なもの写し候ても如何と、
一度貴殿へ向け御照会申上げんと存居処に候。
就ては御申越により、早速写真師同行撮影後、一周間位の
内には御指示のもの、御送り可申上候。
過日送附の晋風氏主梓の黄橙には二月配本として「元録時
代」近刊とあり。又他の全集本もボチゞゝ発行の旨(平凡社より)
(本屋)申来り候故、勿論■刊と事と存候。写真以外御指示の要項
も併せて可申上候。先づ右御承旁御返事まで。匆々。



____三月五日____久保田初蔵
____小川寿一_様

追伸 各原版と原画一枚にて宜敷拝承。この用意可仕
これが違い居候はゞ御きかせ被下度、この通りすれば御返
事に可給候。


○「穎原先生」は、穎原退蔵(えばらたいぞう、1894〜1948)。京都大学の先生で、俳諧を中心とした近世文学の研究者。
○「勝峰氏」「晋風」は、勝峰晋風(かつみねしんぷう、1887〜1954)。新聞記者、のち俳諧の研究や著述を行った。本文中にある「黄橙」は大正15年に創刊された。


以上をふまえた上で、手紙がどういうものかを考えてみます。

この手紙は、小川寿一が出版する勝峰晋風の本に関して、久保田秋雨に問い合わせた手紙の返事と思われます。
本の著者である穎原退蔵は、晋風に著述に必要な写真を送るよう要求しても返事がない、と秋雨に連絡があり、その秋雨にも晋風からの連絡はない。本に載せる資料の写真を頼まれているらしい秋雨は晋風に連絡がとれないため、寿一に必要な写真を聞き、撮影者同行で写真を用意する旨を伝えて居ます。
秋雨が必要な写真を問い合わせていますが、寿一は出版社側関係の人物なんでしょうか。よくわかりません。
「撮影者同行」とあるので、どこかへ写真を撮りに行くのでしょう。本に掲載する資料か、それとも別の写真か。

晋風主宰の雑誌「黄橙」に二月配本として「元禄時代」近刊とあり、他の全集本もボチボチと出版すると本屋から聞いたので、連絡は無くても本が発刊されることは間違いないだろう、と秋雨は書いています。ここで発刊される本の名が「元禄時代」だとわかります。
ネットで調べると「俳人真蹟全集」1〜11巻(刊行年昭和5〜15年、平凡社)というものがあり、その第5巻が「元禄時代 下 勝峰晋風編」となっています。つまり「全集」というのは「俳人真蹟全集」のことで、晋風編の5巻以後の巻もボチボチ発刊だから、5巻が発売中止になることはないだろう、と言っているわけです。

追伸では、寿一に頼まれた原版と原画一枚を、秋雨が用意することを引き受け、間違ってないかを返事に書いてくれるよう頼んでいます。

穎原退蔵は「全集」の第8巻「天明時代 上」の執筆者です。しかし小川寿一は執筆者ではなく、キーワード「俳人真蹟全集」「小川寿一」で検索しても出て来ないのでわかりません。


以上です。「俳人真蹟全集」の出版に関する手紙ということは判明しました。古本屋で見ると「俳人真蹟全集」はそこそこの数が出回っているようですね。また機会があればチェックしてみたいと思います。



久保田秋雨の落巻


落巻(写真はページの一部です)
○落巻

「落巻」とは、月次会などで詠まれた俳句のうち、優秀な句を集めて別に一冊としたものです。その俳句の優劣は、明治以後に行われた、宗匠と参加者全員の採点で選ぶ互選方式でした。

落巻を書くのは宗匠の仕事ですので、すべて秋雨宗匠の手によって書かれています。短冊、手紙、落巻とも筆跡が同じですね。ある人名辞典では「書道家」項に秋雨が入れられていますので、書家でもあったようです。

落巻の形式は、最初に落款つきの宗匠の言葉や俳句、次に会員の句が並び、最後に「追加」として宗匠の句が置かれます。
会員の句は評価の降順で並べられ、最後が人・地・天の「三光」の句。最後のページの天の句が最も優れた句となります。

この落巻は、その会での最優秀句、天の句を作った人に贈られました(それによってその落巻は誰が持っていたのかがわかります)。

以上を踏まえて落巻を見ていきます。



○内容

最初のページに「松坂 方四社」とあり、松坂の会です。よって会員は恐らくみな松阪の人です。「白頭山人」という号を使っています。

会員の俳句は35句収録されています。最初25句、「佳句」7句、「三才」3句。「佳句」「三才」はそれぞれ「十内」「三光」とも言います。入集している会員の名は以下。

竹香、可峰、水影、園裏、素城、霊輝、素雨、星峰、稲嶺

・竹香は小津竹香。松阪の画家です。松尾観音の大主耕雨句碑「賛助員」に名があります。
・水影は川合水影。『耕雨遺稿』を出版した「同門会」に名があります。
・素城は『三重先賢伝』に長谷川可同の嗣子、とあります。それで合っていれば、長谷川本家の12代目、長谷川元収(1891〜1951)のこととなります。
他は不明。

伊勢河崎の秋雨が、なぜ松阪の会の宗匠をしているのかと思っていましたが、会員の顔ぶれを見ると、松坂の大主耕雨の弟子達が作った会のようですね。
天の句は稲嶺作なので、この落巻は稲嶺が持っていたものとなります。





(おわり)

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