梅谿游記二

一目千本尾山八谷之一也花最饒故有此名
蓋比芳野桜谷云余与同人出院下前崖覚山
水与梅花皆已佳絶任意而行至一大谷文稼
識而言之径詰曲而上花夾之歩出其間如踏
白雲而行数百歩達巓下顧弥望皜然与谿山
相輝映余嘗游芳野観其一目千本有此盛而
無此勝又嘗観嵐山桜花有此勝而無此盛也

更求之西土以梅花名者抗之孤山境蓋幽花
則寥寥蘓之鄧尉花頗多地則熱閙唯羅浮梅
花村対峻峰望寒渓而花尤饒庶幾可比我梅
渓歟日已斂昏花隠淡煙中千樹依約不見其
所極暗香蓊勃襲人聞渓声益近且大至咫尺
不弁色而後去。

※最後から３行目５文字目は元の本では「歛」の字。
※最後から２行目６文字目の「勃」は実際には草冠＋「勃」。ただしどちらの字を使っても本文での意味は同じ。

▼読み下し

一目千本の尾山は八谷の一なり。花、最も饒（おお）き故、此の名有り。蓋（けだ）し芳野の桜谷に比して云う。余、同人と院を出でて前の崖を下る。山水と梅花と皆已（すで）に佳絶たるを覚ゆ。

意に任せて行く。一大谷に至る。文稼識（し）りて之を言う。「径、詰曲（きっきょく）して上り、花、之を夾む」と。歩みて其の間を出づれば白雲を踏みて行くが如し。

数百歩にして巓（いただき）に達す。下を顧（かえり）みれば弥望（びぼう）皜然（こうぜん）として谿山と相輝映（きえい）す。

余、嘗（かつ）て芳野に遊ぶ。其の一目千本を観れば此の盛り有りて此の勝無し。又、嘗て嵐山の桜花を観れば此の勝有りて此の盛り無きなり。

更に之を西土の梅花を以て名ある者に求むれば、抗の孤山は境は蓋（けだ）し幽たるも、花は則（すなわ）ち寥寥（りょうりょう）たり。蘓（そ）の鄧尉（とうい）は花頗（すこぶ）る多きも、地は則（すなわ）ち熱閙（ねつどう）たり。

唯（ただ）、羅浮（らふ）の梅花村は峻峰に対し、寒渓に臨みて花尤（もっと）も饒（おお）し。我が梅渓に比すべきに庶幾（ちか）からんか。

日已（すで）に斂昏（れんこん）。花は淡煙の中に隠れ、千樹は依約として其の極まる所を見ず。暗香（あんこう）蓊勃（おうぼつ）として人を襲う。渓声の益ます近く且（か）つ大なるを聞く。咫尺（しせき）に至りて色を弁ぜずして後に去る。

▼語釈

○佳絶－きわめてよいこと。非常にすぐれて立派なこと。
○任意－心のままにする。気まかせ。
○径－こみち。細道。
○詰曲－まがりくねること。詰も曲も、まがるの意。
〇弥望－広く見渡す。また、遠く広い眺め。見渡すかぎり。
○皜然－白い様子。
○輝映－輝きうつる。また、輝き照らす。
○勝－すぐれる。また、すぐれたこと。すぐれた場所。
○抗之孤山－現浙江省杭州市の西湖の中、後湖と外湖との間にある。北宋の詩人林逋（りんぽ）の隠棲した所。梅花の名所。
○寥寥－しんとして静かなさま。ひっそりとしてさびしく静かなさま。
○蘓之鄧尉－現江蘇省蘇州市呉中区。
○熱閙－人が混雑してやかましい。都会の往来などの雑踏してさわがしい。また、にぎやかな土地。
○羅浮－羅浮山。広東省増城県の東にある。東晋の葛洪（かつこう）が仙術を修得した所と伝える。山麓は梅の名所として有名。
○庶幾－ちかい。
○寒渓－寒い谷川。冬の谷川。また、ものさびしい谷川。 ○斂昏－夕暮れ。たそがれ。黄昏。
○淡煙－うすいけむり。また、うすもや。
○依約－かすかなさま。依稀。
○暗香－どこからともなく漂ってくるかおり。やみに漂う花のかおり。
○蓊勃－盛んなさま。
○咫尺－距離が非常に近いこと。

▼訳

一目千本と言われる尾山村の梅渓は、八つある谷のうちの一つである。最も花が多いので、この名前がある。恐らく吉野の桜谷と対比しての呼称だろう。私は前記した人たちと前にある崖をくだっていくと、梅の花が咲いた山と川は、もうすでに素晴らしい景色であることに気付いた。

心にまかせて進むと、一つの大きな谷についた。服部文稼はこの場所を知っていて言った。「小道が曲がりくねって上り坂となっていて、花が道をはさんでいます。」と。花の間の道を歩いていくと、まるで雲を踏んで進んでいくようである。

何百メートルか進むと、頂上に到達した。ふり返って下を見ると、見渡すかぎり白く、山々や渓流と美しいコントラストを描いている。

私は以前に吉野に行き、その一目千本と言われる桜を見た。この景色の盛大さはあったが、これほどすぐれた景色ではなかった。以前に嵐山の桜を見た。このすぐれた景色はあったが、この景色の盛大さはなかった。

更に花の名所を中国の梅花で有名な場所に求めれば、杭州の孤山は奥深い場所にあるが、花の量は少なくまばらだろう。蘇州の鄧尉（とうい）は花は多いが、その土地は人が多くてさわがしい。

ただ、羅浮山のふもとにある梅花の村は、険しい峰に対し、寒い川に面していて花も最も多い。この月瀬梅渓と条件が近く、比較することができる場所だろうか。

やがて日は夕暮れ時となった。花はうすもやにつつまれ、千本の梅はぼんやりとして、その果てが見えない。梅の香りは我々のところへ盛んに漂ってくる。渓流の音はますます近く、また大きく聞こえてくる。近づいても花の色が見分けられなくなった後、その地を去った。