奥田家墓一覧について


○お墓一覧と解読について

三重県松阪市豊原町の枕山に奥田三角で有名な、奥田家の墓の一群があります。
「お墓一覧」は、そのお墓の碑文を解読したものです。

欠けたり摩耗したりして読めない所もあります。また、私の能力的に、恐らく間違いも多いことと思いますのでご了承を。

・必要に応じて碑文の他、書き下し、語釈、口語訳を附しています。
・読めない字はそのまま。意味が分からないのもそのままになっています。


以下、かなりいい加減な概要。

○奥田家について

奥田家は奥田三角の一族のお墓です。
奥田三角は津藩の藩主5代につかえた有名な藩儒です。奥田三角の師は、あの伊藤仁斎の子、伊藤東涯です。よって学派は古義学派となります。
伊藤仁斎が1730年に、三角らを案内に、伊勢国を旅行した「勢遊記」という紀行文があります。実は既に解読が終わってたりしますので、またそのうち整理して掲載しようと思います。
松坂は基本紀州藩ですが、豊原は津藩の飛び地でした。よって奥田三角は津藩の儒者でした。櫛田駅前一帯は奥田家の土地だったようです(枕山も)。多分。


○藩儒の役職について

解読文に出てくる役職ですが、少し説明を。
といっても私がおぼろげに知ってるのは津藩校(有造館、1819年創立)ができてからのものなのでいくらか異なるかもしれません。

大雑把に言って、役職は句読師→講官→督学という順番かと思います。
句読師は9歳〜15歳の子供に漢文の読み方を教える職です。素読なんかの先生ですかね。たしか、斎藤拙堂が24歳くらいの時に、藩儒として最初についた職です。
講官は大学でいう教授みたいな感じですかね。メイビー。15歳以上の藩士を教える先生なんじゃないでしょうか。
そして督学が藩校のトップです。もちろん藩校ができてからの役職ですが。初代督学は、奥田恕堂墓の銘を書いている津坂東陽です。
そして侍読。これは基本は藩主の教育係です。ただし藩主の参謀や相談役的な役割もあったようで、かなり重要ポストかと思われます。

他も色々でてきますが…よくわかりません。



以下は、お墓の各ブロックごとについての備考です。


1.入口前

・(009)での「試儒員」について。訳では見習い的に「仮に登用する」といった意味にしてますが、試は「任命する」という意味もあります。しかし、そのあとの文で「充本員」(本採用?)とあること、また、若くで「試儒員」となっているのでその訳としました。拙堂が儒官として最初に句読師になったのが確か24歳くらいだったはずです。

・(009)の津坂東陽銘の部分は難解でよくわかりません。訳などかなりいい加減です。




(おわり)

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