枕山 奥田家墓一覧

お墓配置図

写真)/ 1入口前/ 2右手下


※「 _ 」の文字は空白(スペース)です。
※必要と思ったものには【書き下し】、語釈、【口語訳】をつけました。
※各区画の最初の配置図は、「○」がお墓、「□」が灯篭など、それ以外のものです。

入口前


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜お墓配置図〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

____□灯篭_____□灯篭

□地蔵

(008)
(007)
(006)
(005)
(004)
(003)
(002)
(001)

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


(001)左行「貞住孺人墓」右行「蘭斎奥田君之墓」
(右側面)
明治十八年九月十七日死
明治二十九年一月四日死

(002)「貞訓孺人墓」
(左側面)
明治十七年八月八日
奥田氏

(003)「強斎先生之墓」
(右側面)
先考諱士彦字介甫号強斎又号八磚学人不言
岡部君第三子天保紀元庚寅八月為正直君嗣
襲禄八年二月任句読師嘉永二年己酉八月任
講師五年壬子后二月任文学隊曹長元治紀元
(左側面)
甲子十一月任書斎司明治四年辛未八月免職
在職中賜貰?衣物甚夥十一月致仕十二月二十
七日病没年五十六葬於念仏寺之塋
____________哀子士方謹識

【書き下し】
先考、諱は士彦。字は介甫。号は強斎、又八磚学人、不言。岡部君の第三子たり。天保紀元庚寅八月、正直君の嗣に為りて禄を襲う。八年二月、句読師に任ず。嘉永二年己酉八月、講師に任ず。五年壬子后二月、文学隊曹長に任ず。元治紀元甲子十一月、書斎司に任ず。明治四年辛未(1871)八月、職を免ず。在職中、賜貰?する衣物、甚だ夥し。十一月致仕。十二月二十七日病没。年五十六。念仏寺之塋に葬る。
 哀子士方謹識

○先考−死んだ父。亡父。○正直君−先代の奥田良懐のことか。良懐は強斎が奥田家を継いだ天保元年8月の2か月前に亡くなっている。○后二月−后は後で、後の二月、つまり閏二月のこと。1852年は閏年(閏月がある年)で、二月の次が閏二月となる。○哀子−父母の喪に服している子。

【口語訳】
亡父の諱は士彦、字は介甫、号は強斎・八磚学人(はっせんがくじん)・不言。岡部氏の三番目の子である。天保元年(1830)八月、(奥田)正直氏の後継ぎとなって家禄を受け継いだ。天保八年(1837)二月、藩校の句読師となる。嘉永二年(1849)八月、講師となる。嘉永五年(1852)閏二月、文学隊曹長となる。元治元年(1864)十一月、書斎司となる。明治四年(1871)八月、退職をゆるされる。在職中、褒美として頂いた衣類は大変多かった。十一月に退職。十二月二十七日に病没。享年五十六。念仏寺の墓に葬られた。
 喪中の子の士方、つつしんで記す。

(004)「良懐奥田君之墓」
(左側面)
君諱喜字伯起安靖君之嗣也文政庚寅
六月二十一日卒年二十二葬于津府天
然寺墓其遺髪于此以為儀墓

【書き下し】
君、諱は喜、字は伯起。安靖君の嗣也。文政庚寅(1830)六月二十一日卒。年二十二。津府天然寺の墓に葬る。此に其の遺髪を以て儀墓と為す。

(005)「安靖奥田先生墓」
(左側面)
君諱彰字子常直毅先生之嗣也文政
乙酉九月八日卒年二十葬于津府天
然寺墓其遺髪于此地以為儀墓

【書き下し】
君、諱は彰。字は子常。直毅先生の嗣なり。文政乙酉(1825)九月八日卒。年二十。津府天然寺の墓に葬る。此地に其遺髪を以て儀墓と為す。

(006)「貞義孺人山際氏墓」
(左側面)
孺人諱玖珥姓山際氏考秋月君諱時応妣玅香孺
人原川?氏年甫十三帰文学奥田敬忠先生自洞津
適豊原其為人温恭慈善事舅姑又太舅倶得?其歓
心治家不■而■過奴婢有恩自奉至薄而喜施与?
(裏面)
人稍有間暇好読書史又能詠詩歌然不敢示人凡
平生処事聡慧而謙虚不独此也年甫三十三而寡
教育二孤以義方率之長即恕堂先生襲業不墜家
厳次篤居子亦以才芸称享和二年壬戌十月八日
疾卒寿五十有六葬于枕山先塋之側自器之□人
受業於先生之門器幼蒙孺人猶子之愛羪姪妻?女
妻器茲謹銘其墓曷勝哀慕之至銘曰
(右側面)
■人令徳君子好逑遺訓餘慶名家?千秋
________洞津長良器拝撰
__________彭
________奥田壹謹建

【書き下し】
孺人、諱は玖珥(くに?)、姓は山際氏。考秋月君、諱は時応。妣玅香孺人、原川氏。年甫(はじ)めて十三にして文学に帰す。奥田敬忠先生の洞津より豊原に適く。其の人と為りは温恭慈善、舅姑、又は太舅に事えて倶に其の歓心を得、家を治めて不■にして■過。奴婢恩有り。自(みずか)ら奉ずること至って薄くして人に施こし与えるを喜ぶ。稍(やや)間暇有れば書史を読むを好み、又能く詩歌を詠ず。然して敢えて人に示さず。凡そ平生、処事・聡慧にして謙虚たり。独り此れのみならざるなり。年甫(はじ)めて三十三にして寡たり。二孤を教育するに義を以ってし、方(まさ)に之を率いて長ずれば、即ち恕堂先生業を襲いで家を墜とさず。厳しく次いで篤く子と居る。亦、才芸を以て称せらる。享和二年壬戌(1802)十月八日、疾みて卒す。寿五十有六。枕山先塋の側に葬る。器之□人より先生の門に業を受く。器、幼くして孺人猶子の愛羪を蒙り、姪妻?の女を器と妻(めあわ)す。茲に謹んで其墓に銘す。曷(いずく)んぞ哀慕の至り勝(た)えん。銘して曰く、
 ■人、令徳の君子。好く遺訓を逑むれば、餘慶、名家千秋たり。

○孺人−妻の通称。○考−死んだ父。亡父。○妣−なきはは。亡父。○甫−やっと…になったばかり。○文学−学問。○温恭−おだやかでつつしみ深い・こと(さま)。○慈善−情けや哀れみをかけること。○書史−経書と歴史書。 ○処事−事柄を適正に処置する。○孤−親をなくした子。○羪−養。○姪−女子が兄弟の子をいう。○令徳−立派な徳。美徳。善徳。○逑−=求。
○長良器−詳細不明。津藩儒医でくにとほぼ同年代の長良洞彦(1747〜1806)は奥田三角の門弟だったが、その子か孫あたりか。
○奥田彭−(008)奥田恕堂のこと。 ○奥田壹−不詳。岡本氏へ養子に行った恕堂の弟と思われる。

【口語訳】
夫人の諱はくに、元の姓は山際氏。夫人の亡父は(山際)秋月、諱は時応。亡母の玅香は原川氏。夫人は13歳の時に学問をはじめた。夫の奥田敬忠先生は津から実家の豊原に帰ったが、夫人の性格は穏やかで慎みがあり慈悲深かったので、夫の父母や祖父につかえて喜ばれ、家をおさめて■■だった。下女下男にいたるまでその恩を受けた。自分のために働くことはほとんどなく、他人に施すことを喜んだ。少しひまがあれば経書・歴史書を読むのを好み、また詩歌がうまかったが、必ずしも人に見せようとはしなかった。普段は総じてよく仕事をこなして聡明であったが謙虚であった。それだけでなく、33歳の時に寡婦となってしまったが、残された2人の子を道義によって教育し、成長した子の恕堂先生が業を継いだが家名を落とさなかった。子供と居るときは厳しく、そして懇切であった。また、才芸によって称された。享和2年(1802)10月8日病没。享年56。枕山の先祖の墓の側に葬られた。私(撰文者の長良器)の先人?より先生の門に学んだが、私も幼いころから夫人やその猶子の愛育を受け、夫人のおいの娘を?私にめあわせた。そのご縁で、ここにつつしんで墓に銘をしるす。哀慕の至りに耐え切れない思いである。銘していわく、
 ■人は立派な美徳の君子であり、よく遺訓の通りにすれば、その余慶で永遠に名家として栄えるだろう。

(007)「貞保松永氏之墓」
(左側面)
諱美保松永氏直毅先生之妾也嘉永
辛亥正月廿日没年七十一葬于津府
天然寺墓其遺髪于此以為儀墓

【書き下し】
諱は美保。松永氏。直毅先生の妾なり。嘉永辛亥(1851)正月廿日没。年七十一。津府天然寺の墓に葬る。此に其の遺髪を以って儀墓と為す。

(008)「直毅先生之碣」
(正面)
先生諱彭字允倩初名士廸字子登姓奥田号恕堂称清
十郎世為 本藩儒官祖簡肅先生諱士亨伊藤紹述先
生高弟考敬忠先生諱士元妣貞義孺人山際氏有二子
先生其長也弟台出嗣岡本氏明和甲申十二月先生生
于豊原安永己亥九月敬忠先生没先生年甫十六歳襲
禄百五十石試儒員受教於簡肅先生膝下後遊学京師
寓古義堂数年天明戊申充本員備 顧問及
今公紹封特 眷遇朝夕入侍文化丁卯擢為侍読□
預機密従 覲在東多所建置己巳班比侍御司 加賜
(左側面)
禄三十石壬申任侍御□□□侍読亡何以疾辞侍読如故癸酉春病
痱乙亥七月二十九日享年五十有二而卒葬于豊原枕山先塋之次
私謚曰直毅先生天資預邁有胆略事
若忠直知無不言毎侍経莚専陳政要務明大義啓沃居多寵遇之
盛于先世有光 賞賜頻繁不可勝紀其処事也必深慮熟考後取
(裏面)
断而行不為毀誉動不為栄辱移人或危之持論凛然嘗値廃孟子議
起曰在其能読者実尊亜聖経但初学則或誤君臣之義請姑止之先
生建言吾家祖父己来以古義為業古義之学乃因孟子発揮苟廃孟
子則古義廃矣吾何以奉識哉由是遂得不廃焉尤尚気節趨人之急
周旋経紀必済事而後已東所先生之没也嗣東里先生多病孫尚幼
伊藤氏将替先生深以為憂歳遺録五十石凡七年矣?性好書画精監
識希世古蹟多帰挿架先生不要置妾無子養吉田氏之子為嗣名彰
襲禄試儒員東陽津阪先生以其知己為銘墓碣門人土井弘高根承
謹為之序小子輩自幼受学並承乏儒員実先生之遺蔭也爰共述其
(右側面)
行誼感旧仰恩不勝哀悼之切云
三世儒宗不墜家声臨事勇断仗義力行鄒書幾廃奮匡学政師門扶
孤捐俸贍給経幄膺選賛襄中興風雲際会斯文光栄献替矯弊器識
精明跋疐陵険志節堅貞天仮之年会覩大成魄帰地英気猶生
________________津藩文学津坂孝綽銘

【書き下し】(最後の銘部分は別記)
先生、諱は彭。字は允倩(いんせい)。初名は士廸(してき)。字は子登。姓は奥田。恕堂と号し、清十郎と称す。世々本藩の儒官為り。祖簡肅先生、諱は士亨。伊藤紹述先生の高弟たり。考敬忠先生、諱は士元。妣貞義孺人、山際氏。二子有り。先生其れ長ずるや、弟台出て岡本氏に嗣す。明和甲申(1764)十二月、先生豊原に生まる。安永己亥(1779)九月、敬忠先生没。先生年甫(はじ)めて十六歳、禄百五十石を襲い、儒員を試む。教えを簡肅先生の膝下に受け、後京師のに遊学し、古義堂に寓すること数年、天明戊申(1788)、本員に充てられ顧問に備え、今公の封を紹(つ)ぐに及びて特に眷遇され、朝夕入りて侍す。文化丁卯(1807)、侍読として擢(ぬ)かれ、□、機密を預かり、覲(まみ)えるに従がう。東に在りて多所を建置す。己巳(1809)班(つ)いで侍御司に比(いた)り、禄三十石を加賜せらる。
《左側面》
壬申(1812)、侍御□に任ず。□□侍読亡。何を以てか疾して侍読を辞し、故(もと)の如し。癸酉(1813)春、病みて痱(しび)る。乙亥(1815)七月二十九日、享年五十有二にして卒す。豊原枕山先塋の次に葬る。 私に謚(おくりな)して曰く、直毅先生、天資頴邁(えいまい)にして胆略有り。事えて若し忠直なれば言わざる無し。経莚に侍す毎に専ら政要を陳べ、大義を明らかにするに務む。啓沃(けいよく)して居り、多く之を寵遇すること先世に盛んなり。光有りて賞賜(しょうし)すること頻繁にして、其の処をあげて紀すべからず。事えるや、必ず深慮熟考して後に取れば断じて行う。
《裏面》
毀誉の為ならずして動き、栄辱の為ならずして移る。人或いは之を危ぶむ。持論凛然たり。嘗て孟子を廃するに値う。議を起して曰く「其の能く読む者に在りては実に亜聖の経を尊ぶ。但し初学なれば則ち或いは君臣の義を誤る」と。姑(しばら)く之を止むことを請う。先生建言して「吾が家の祖父己来、古義を以て業と為す。古義の学は乃ち孟子に因りて発揮す。苟しくも孟子を廃せば則ち古義廃すなり。吾れ何を以って奉識せんや。」是に由りて遂に廃せざるを得る。尤も気節を尚び、人の急に趨(おもむ)き、周旋・経紀し、必ず事を済せて後に已む。東所先生の没するや、嗣東里先生、多病にして孫尚お幼たり。伊藤氏将に替(すた)れんとす。先生深く憂いを為すを以って、歳に録五十石を凡そ七年遺す。性書画を好み、監識に精しく、希世の古蹟多く架に帰挿す。先生妾を置くを要せずして子無く、吉田氏の子を養いて嗣と為す。名は彰。禄を襲いて儒員を試む。東陽津阪先生、其の知己たるを以て銘を為す。墓碣は門人土井弘高根、謹しんで承け之を為す。序(ついで)に小子輩、幼より学を受け、並びに乏しき儒員を承く。実に先生の遺蔭なり。爰に共に其れを述ぶ。

○考/妣−亡き父/母。○(弟)台−他人の尊称。○試−あてる。任命する。○顧問−相談する。もと天子が臣下をかえりみて、その意見を聞くこと。○顧問−相談役。○今公−藤堂高兌(藩主:1806〜1824)と思われる。○紹−つぐ。受け継ぐ。継承する。○眷遇−特別に目をかける。目をかけて手厚くもてなす。○機密−天子のそば近くの、重要な職務。○覲−諸侯が天子にお目にかかること。天子が家来に会うこと。○建置−建てる。設置。○如故−以前のとおりである。もとどおりである。○痱−大・小便などを少しずつ漏らす。ちびる。○頴邁−恐らく英邁と同じ。頴は穎の俗字ですぐれる。ぬきんでる。○胆略−大胆で知略に富んでいること。○忠直−真心があって正しいこと。忠義で正直。○経莚(けいえん)−天子が経書の講義をひらく席。○政要−政治上最も大切な所。政治の眼目。○啓沃(けいよく)−臣下が自分の心に思うことをすべて君主に申し上げること。○有光−有功のことか。○賞賜−功労や善行をほめて、金品や官位などを賜る。○毀誉−けなすこととほめること。悪口と称賛。○亜聖−聖人の孔子に対し、孟子や顔回をいう。○姑−しばらく。一時。○気節−気概があって、節操の固いこと。○周旋−事をとり行うために動きまわること。面倒をみること。○経紀−すじみち。/生活上の世話をする。○東所先生−伊藤東所(享保15(1730)〜文化1(1804))。東涯の子。○東里先生−伊藤東里(1757〜1817)。東所の子。私塾古義堂を継承。○替−すたれる(廃)。おとろえる。ほろびる(滅)。○遺−おくる。やる。物を与える。○墓碣−墓石。○乏−官職などが空席になっていること。空位。○土井弘高根−恐らく土井橘窓(名が弘で年代も合う)。医者でのち儒者。藤堂高兌の侍読となる(恕堂没のためと思われる。)。土井ごう牙の父親。

【口語訳】
先生の諱は彭。字は允倩(いんせい)。初名は士廸(してき)。字は子登。姓は奥田。恕堂と号し、清十郎と称した。代々津藩の儒官であった。祖父の簡肅先生(奥田三角)の諱は士亨。伊藤東涯先生の高弟であった。亡父敬忠先生の諱は士元。亡母の貞義孺人は山際氏。二人兄弟で、先生が成長すると、弟は家を出て岡本氏の養子となった。先生は明和元年(1764)12月に豊原に生まれた。安永8年(1779)9月、父の敬忠先生が没した。先生は16歳にして百五十石の家禄をつぎ、仮の?儒員となった。教えを祖父の簡肅先生(奥田三角)に受け、後に京都へ遊学し、古義堂で数年学び、天明8年(1788)本員の儒官となって藩主からの相談役として備えた。現藩主の藤堂高兌が津藩主をつぐと、特に厚遇され、朝夕藩主に付き従った。文化4年(1807)、侍読に抜擢され、重要な職務機密に関与した。(藩主が将軍に?)覲(まみ)えるのに従がって東(江戸)へ行き、多くの所に設置した(意味不詳)。文化6年(1809)侍御司となり、禄三十石を加増された。
《左側面》
文化9年(1812)、侍御□となった。□侍読亡。何かの病気で侍読を辞したが、病気は回復した。文化10年(1813)春、病みて下痢の状態となり、文化12(1815)七月二十九日、52歳で没した。豊原枕山の先祖の墓の隣に葬られた。 私的に先生について述べれば、直毅先生の性質は英邁かつ大胆で知略に富み、藩主に仕えて正しいと思ったことは全て直言した。藩主に講義をするときは主に政治上の要所を述べ、大義を明らかにするにつとめた。自分の思うところは全て藩主に話し、藩主の寵遇は先代以上であった。功があって褒美を賜ることは頻繁で、数えきれないほどであった。仕えれば必ず熟考して、その考えを採用すると決めたならば断じて行なった。
《裏面》
他人の評価や名誉と無関係に行動した。人は時によって先生のこういう言動を危ぶんだが、凛然として自分の考えを曲げることはなかった。かつて、孟子の学を禁止されたことがあった(※寛政の改革時)。議論を起こして言うには「よく読む能力のある者には『孟子』は尊いものだが、能力のない初学者は不理解により君臣の義を誤まることがある」と。よってしばらく孟子の講義の中止を要求した。しかし先生は「我の祖父(※三角)以来、古義学を家学としてきた。古義学は孟子の学によってその本領を発揮する。もし孟子の学を廃止するというのならば、それは古義学を廃止するのと同然である。そうなれば私は何によって藩に仕えればよいのか。」と意見を申し立てた。これによって遂に孟子の学を廃止することをまぬがれた。先生はとりわけ気節を尊び、人の危急には助けに向かい、周旋や生活上の世話をし、必ず問題が片付くまで面倒を見た。伊藤東所先生(※三角の師である東涯の子)が亡くなり、あとを継いだ東里先生は病気がちで、孫はまだ幼かった。伊藤氏は衰退しようとしていた。先生はこれを深く憂慮して、年に50石を7年の間おくり続けた。 また、生来書画を好み、鑑識眼があり、珍しい古跡をたくさん持っていた。先生は妾を求めなかったので、子が無く、吉田氏の子を養子とした。その後継ぎの名は彰。家禄を継いで仮の儒員となった。津坂東陽先生は恕堂先生の知人として銘を書いた。墓石の文は先生の門人である私、土井弘高根(※土井ごう牙の父)が謹んで承り、これをなした。ついでながら、私は幼いころより学をうけ、学才乏しき身でありながら儒員に任じられた。これは誠に先生のお蔭である。よってそれをここに追記する。


【書き下し】(津阪東陽銘)
行誼旧を感じ、恩を仰いで哀悼の切なるに勝えずして云う、
三世儒宗、家声を墜さず。事に臨んで勇断、仗義力行、鄒書幾(ほとん)ど廃せられ、奮って学政を匡(ただ)す。師門に孤を扶け、俸を捐てて贍給(せんきゅう)す。経幄膺選し、賛襄(さんじょう)の中、風雲興る。斯文(しぶん)に際会し、光栄・献替し、弊器を矯(た)め、精明を識る。跋疐(ばっち)・陵険するも志節堅貞、天仮の年、大成に会い覩(み)る。魄は地に帰るも、英気猶を生ず。
 津藩文学津坂孝綽銘

○行誼−道にかなった、正しい行い。行儀。○儒宗−儒者の中の中心人物。儒学の大家。○家声−一家の名誉。家のほまれ。○仗義−正義をたのみとする。正義によって行う。正しい道に従う。○鄒書−鄒は孟子の出生地。よって『孟子』のこと。○学政−教育上の行政。教育行政/学問と政治。○師門−先生。また、先生の門下。○捐−すてる。やめる。/乞食。○贍給−施し与える。足してやる。○経幄−経筵。学者が皇帝に儒教の経典を講義すること。○膺選−選抜にあたる。当選。○賛襄−たすけなす。助力して成就させる。翼賛する。一説に君徳を明らかにして我が忠言を揚げる。○風雲−英雄・豪傑が頭角をあらわすような気運。勢い・才能などの盛んなさま。○斯文−この学問。この道。特に、儒教の 学問や道徳をいう。○際会−出会う。特に、臣下立派な君主に出会うこと。○光栄−光り輝く。○献替−善をすすめ、悪をやめさせること。君主を補佐することをいう。○矯−ためる。まっすぐにする。ただす。○弊−やぶれる。やぶる。/つかれる。○精明−物事の道理にくわしく明らかなこと。○跋疐−つまづきたおれる。○陵険−険しい所を越える。転じて、危険をおかすこと。○志節−主義や考えなどを固く守る意志。志操。○堅貞−心や操がかたく正しい。○天仮−死ぬこと?○大成−功を立派に成しとげて太平をまねくこと。事の完全にできあがること。立派に成就する事。

【口語訳】
正道を行った奥田恕堂の昔を感じ、耐え切れない哀悼の思いに述べる。
三代にわたる儒学の大家の名をおとさず、ことにのぞんで勇断で、正義によって努力して行動し、『孟子』の書が廃止されそうになっても、奮闘して教育行政を正し、それを食い止めた。先生の一族(※伊藤東涯の一族)の孤児を助け、自分の俸禄を施し与えた。 藩主の講義役(※侍読になったこと?)に選ばれ、藩主を補佐すると、その頭角をあらわした。儒学に出会って光り輝き、善をすすめ悪をただし、人の器をまっすぐにし、物事の道理を知った。困難にあっても主義をかたくまもり、亡くなる時には大成を成し遂げた。体は大地へ還ったが、その英気はまだ存在している。


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右手下


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜お墓配置図〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

____________________□灯篭
______________________________________
____ 009010011  012  (013)(014)(015)(016)(017)(018)(019)(020)(021)(022)(023)(024)(025)(026)
□灯篭_□灯篭________________________________________
_____________________________(027)(028)(029)(030)_______(031)__(032)

                        

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



(009)「智鏡院照誉寿渓大姉」
(右側面)
安政五戊午年霜月六日
三代目奥田文次郎士良妻
南藤原村多井氏女享年八十八歳

(010)「鼓楽斎随誉実応居士」
(裏面)
文政六癸未年八月十有三日
______奥田伊八郎之墓

(011)「志勤斎奥田磐渓墓」
(文字なし)


(012)「奥田戒翁妻秦氏墓」
(表面)
家大夫大江成美為其所生母秦氏請余題墓碣
曰臣亡母伊勢国安濃津秦氏之女也資性貞順中
饋是謹臣父没後寡居守志教誨臣兄弟慈恵而
有範幾乎三十年矣著称郷党天明乙巳仲冬望
病没得年七十三臣以螟蛉於大江氏侍于尊府而蒙眷
遇不能遂膝下之養深以為憾也伏冀垂愍私情
賜以一言勒諸瑣a而光栄泉壌則不朽之大賚夫稽
顙敢請余曰貞順守節婦行之先而世人之所難秦
(左側面)
氏黽勉不怠可謂全婦徳矣且汝思慕不置建碑刻銘悠久其令聞
亦孝子之志哉余何可無言而止邪乃銘曰
 操守寔堅寡居有年 撫養孤弱教誨是恪慈恵孔将婦徳之良
天明戊申冬十一月内大臣家孝撰并書
(裏面)
右吾君所賜妣寿労孺人秦氏碣銘也成美辱拝其賜而遠
送郷里示姪奥田士良士良感歎曰嘗聞丞相之文夫人之所
願得而難得者也況手書賜銘乎刊石伝子孫則不独光祖徳
何栄加之未畢其志而士良罹疾没焉可悲哉遂告家兄士弘
士英相与謀不朽之事先是母孺人年七十自建寿碣墓其寵
孫壬生之髪今別作石刻賜銘目送前碑于豊原光蓮寺嗟以
此錫表幽則萱堂已孺人之霊没而有餘喜士良之志亦慰於
(右側面)
冥々之中乎其壬生者以天明壬寅四月廿四日終士弘長女
士良姉山路祐保妻也妼孺人正徳癸巳五月一日生天明乙
巳十一月十七日卒嗚呼悲哉歳月屡遷感慕無終非不世之
賜慈能報国?極之恩哉末男朝散大夫伊予守大江成美謹書

【書き下し】(表面・左側面)
家大夫大江成美、其の生む所の母の秦氏、余に請う為に墓碣を題す。曰く、臣の亡母は伊勢国安濃津の秦氏の女也。資性貞順、中饋は是を謹しむ。臣の父没して後、寡居して志を守り、臣の兄弟を教誨(きょうかい)す。慈恵たりて範有ること幾乎(ほとんど)三十年矣。郷党に著称さる。天明乙巳(1785)仲冬、病に望んで没す。年を得ること七十三。 臣、大江氏に螟蛉(めいれい)を以てす。尊府に侍りて眷遇を蒙り、膝下の養を遂げる能わず、以って憾を為すなり。伏して冀(こいねが)わくわ、愍れみを垂れ、私情をして賜うに一言を以て諸瑣aを勒して泉壌を光栄すれば則ち不朽の大賚(だいらい)たり。夫れ稽顙(けいそう)して敢えて請う。余曰く、貞順・守節・婦行の先にして世人の難とする所、秦氏は黽勉(びんべん)怠らず、全く婦の徳と謂うべし。且つ汝の思慕は碑を建て銘を刻み置き、其の令聞を悠久にせざれば、亦孝子の志ならんや。余ぞ可言う無くして止むべけんや。乃ち銘して曰く、 操守、寔に堅くして寡居有年、孤弱を撫養して教誨す。是れ慈恵の孔なるを恪(うやま)う。将に婦徳の良たり。
天明戊申(天明8年(1788))冬十一月内大臣家孝撰并書

○大夫(だいぶ)−貴族の家に属する官人。○貞順−貞淑で従順なさま。○中饋−女性が家庭で炊事をすること。転じて女性、妻、女性の仕事。○寡居−配偶者を亡くして独りで暮らすこと。やもめ暮らし。○守志−自己の志を固く守る。○教誨−おしえさとすこと。○慈恵−慈愛の心をもって他に恵みを施すこと。また、その恵み。 ○著称−名を知られて、世間にたたえられる。 ○螟蛉−青虫。養子のこと。○尊府−相手の家。○憾−心残りに思う。残念に思う。○勒−きざむ(刻)。ほる(彫)。○瑣a−不明。aは玉に似た美しい石。○泉壌−泉下の地。冥土。転じて死者。○賚−たまもの。くだされもの。○稽顙(けいそう)−額を地につけて敬礼する。○黽勉−つとめはげむこと。精を出すこと。○操守−心に堅く守って変わらないこと。また、しっかりしたみさお。○孤弱−幼くして親を失うこと。また、その者。○恪−うやまう。つつしむ。○慈恵−いつくしみ恵む。またいつくしみ・恵みの深いこと。○孔−おおきい。ふかい。
○家孝−大炊御門家孝(1747〜1799)。天明7年(1787)内大臣となり、寛政元年(1789)辞任。4年(1792)内大臣に再任され、8年(1796)右大臣にすすんだ。従一位。寛政11年5月13日死去。53歳。法号は瑶台寺。

【口語訳】
大炊御門(おおいのみかど)家の大夫(だいぶ)の大江成美に、その実母の秦氏の墓の銘文を請われたのでそれを題す。大江成美は言った。
「私の亡母は伊勢国安濃津の秦氏の娘です。性格は貞淑・従順で、女性の仕事をつつしんで行いました。私の父が亡くなった後は再婚せずに自分の志をかたく守り、私の兄弟を教育しました。慈愛をもって恵みを施し、人の手本となること30年近く、郷土の人に称賛されました。天明5年(1785)冬11月に病気で亡くなりました。73歳でした。私は大江氏の養子となったため、亡母の寵愛をうけて成長することができず、残念に思っています。そこで伏してお願いします。私の情を憐れんで、一言をいただき、経歴を墓に刻んで亡母をたたえることができれば、不朽のたまものとなります。」
そうして成美は額を地につけてお願いした。そこで私は言った。
「貞順・守節は婦人の行いの第一ではあるが、世の人々が難しいとする所である。秦氏はそれを勉め励んで怠らなかった。これこそ婦人の徳行というものである。かつ、あなたは思慕によって墓を建てて銘を刻み、その美しい名声を不朽の物としようとしている。これもまた、孝子の志というものではないだろうか。それを私がどうして断ることができるだろう。」
そこで以下のように銘する。
「操を守ること真に堅く、寡婦として長年、子供を養い教育す。その大いなる慈愛と恵みの深さを敬う。まさに婦人の美徳である。」
天明8年(1788)冬11月、内大臣家孝、撰文ならびに書す。


【書き下し】(裏面・右側面)
右は吾が君の賜う所の妣寿労孺人秦氏の碣銘なり。成美、辱けなく其賜を拝して遠く郷里に送り姪奥田士良に示す。士良感歎して曰く「嘗て聞く丞相の文、夫人の願う所を得るにして得難き者なり。況んや手書して銘を賜うをや。石に刊(きざ)みて子孫に伝えれば、則ち光祖の徳のみならず、何の栄か之に加えん。」未だ其の志を畢らずして士良、疾に罹りて没す。悲しむべきかな。遂に家に告ぐ。兄士弘・士英、相与に不朽の事を謀る。先ず是れ母孺人、年七十、自(みず)から寿碣墓を建て、其の寵孫壬生の髪は、今別して石を作りて賜わる銘目を刻み、前の碑を豊原光蓮寺に送る。嗟(ああ)此の錫(たま)わるを以て幽を表にせば、則ち萱堂(けんどう)已に孺人の霊没して餘喜有り。士良の志、亦た冥々之中に慰まん。其れ壬生は天明壬寅(1782)四月廿四日を以て終る。士弘の長女、士良の姉は山路祐保の妻なり。妼孺人は正徳癸巳(1713)五月一日生、天明乙巳(1785)十一月十七日卒。嗚呼(ああ)、悲しいかな。歳月屡(しば)しば遷りて感慕終り無し。世の慈を賜わずして国に報いるは極の恩にあらずや。 末男朝散大夫(ちょうさんたいふ)伊予守大江成美謹しんで書く。

○丞相−大臣の唐名。○表−石柱。人徳などをほめたたえて建てる石柱。○幽−かくれる。ひそむ。また、かくす。○萱堂−母親の居室。転じて、母親のこと。○孺人−妻の通称。○餘喜−おそらく=「餘歓」。つきない喜び、の意。○?−女性の立ちいふるまいの正しいこと。○朝散大夫−日本で、従五位下の唐名

【口語訳】
右(表面・裏面)は私の主君にいただいた亡母秦氏寿労の銘である。私はその銘をありがたくいただいて郷里に送り、甥の奥田士良に見せた。士良は感激して言った。「かつて聞く名高い内大臣の文章、亡夫人(※士良の祖母にあたる)の願う所でありかつ得難いものである。ましてや手書きの銘をいただくとは。墓石に刻んで子孫に伝えれば、亡夫人の徳行を伝えるだけでなく、最高の栄誉である。」しかし、士良は墓石を建てる前に病気で亡くなった。悲しいことである。そのことを奥田家に伝えると、兄の士弘と士英は墓石を建て、銘を刻んで不朽のものとすることを計画した。(これ以後の部分意味不詳)70歳の母は自分で生前墓を建て、寵愛の孫士良(※壬生は士良の別名)の髪は、今別に墓石を作って賜った銘目を刻み、前の碑を豊原光蓮寺へ送った。ああ、この賜った銘によって隠れた徳を墓銘にしてあらわせば、亡くなった母も喜び、士良の志もまたあの世でのなぐさめとなるであろう。
士良は天明2年(1782)4月24日に亡くなった。士弘の長女、すなわち士良の姉は山路祐保の妻となった。亡母の妼は正徳3年(1713)5月1日生まれ、天明5年(1785)没。ああ、悲しいことである。歳月はすぐに過ぎていくが、思慕の思いは終わることがない。 (この部分意味不明)。末男、従五位下伊予守大江成美つつしんでしるす。



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