水溜米室


水溜米室(みずためべいしつ)は幕末・明治の伊勢(山田)の画家です。いつか米室の展示か何かをやろうと思って思っていましたので、以前から品物をちょこちょこ集めていました。
展示するかはどうかはわかりませんが、折角米室に関する品を集めていたので、このページに一旦米室についてまとめておこうと思います。






米室については手持ちの本の中では『三重画人伝』『続三重先賢伝』『伊勢度会人物誌』『早修区人物史』に項があります。また、伊勢で伊勢人の古蹟を持ち寄って皆で閲覧する致一会というものがありました。その定期的に開かれた例会の出品物をまとめた『視昔帖』(大正四年頃)という本があり、それに米室の情報がいくらか載っています。


◎経歴

米室の実父は早馬瀬(はやまぜ)の人で山路五兵衛といいます。早馬瀬は現在の松阪市早馬瀬町。松坂市の東端で櫛田川の東岸、明和町の隣にあります。母は猶江(なおえ)せい。米室は文化14年(1817)7月10日生まれで幼名を吉太郎といいました。
父の山路五兵衛は後に早馬瀬から伊勢の一之木に移ったとあります。母は猶江という姓は、この辺りでは変わった姓ですが、どこ出身の人かはわかりません。本の記述では、米室は松阪の早馬瀬で生まれたのか、伊勢の一之木で生まれたのかはわかりません。
後に母は吉太郎(米室)を連れて離縁し、他に嫁いだため、吉太郎は伯母の嫁ぎ先である浦口町の上村東朔(うえむらとうさく)方に養われます。離縁前野住所の一之木は外宮の北あたり、上村方の住所の浦口は外宮の西あたりです。

この上村方時代に四条派の画家、岡村鳳水に絵を学びました。
岡村鳳水(1770〜1845)は『伊勢度会人物誌』によれば、応挙門の十哲の一人として名があり、伊勢に画友がいた縁で、下中之郷(現宮町)の岡村家に養子に入った人だ、ということです。伊勢の地に流行りの円山四条派の画家を置きたいがため、頼んで養子に来てもらった、とかそういうことかもしれません。応挙十哲の一人と言いますが、鳳水を十哲に入れているのは多分伊勢の人だけでしょう(笑)。とにかく、応挙の有力な弟子の一人であった岡村鳳水が米室の絵の先生でした。

その後、弘化2、3年(1845、6)頃、同じ浦口住の水溜吉太夫の養子になります。米室は吉太夫の名を継いでいます。吉太夫という名前から、御師の家でしょうか。
『視昔帖』に「在京十数年四十歳ニシテ帰省」とあります。40歳の十数年前ですから、20代後半くらいに京都へ行ったこととなります。一方、水溜家へ養子に入ったのが弘化2、3年頃ですから、米室はすでに29か30歳です。すると京都へ行ったのは水溜家に養子に入ってからすぐだということになります。

ここらへんの事情をすこし想像してみます。
まず養子に入った時の年齢が高すぎるように思います。そしてすぐに京都へ行ったのも不自然です。次に、養子に入った時期が弘化2、3年ということですが、実は米室の絵の師である岡村鳳水が76歳で亡くなったのが、それに近い弘化2年5月4日です。
このあたりの情報から、師を失った米室は、京都へ絵の勉強に行くために水溜家の養子となった、と考えるのはどうでしょうか。上村方に養われている身分では他国へ絵の勉強をしに行くことは到底できません。そこで京都へ絵の勉強に行くために水溜家へ入った、というわけです。
他の地域ではわかりませんが、伊勢や松阪の商家や御師は、若い時に具体的な目的もなく、よく京都へ遊学しています。その辺りの知識はありませんのでなんとも言えませんが、見聞を広める、あるいは京都の有名人達と人脈を作る、などの理由が想像できます。グランドツアーみたいなものでしょうか。

それはともかく米室は水溜家へ養子に入り、すぐに京都へ出発します。そしてまず鳳遷という画家に弟子入りします。ただ、この鳳遷という画家の名はどこを調べても出てきません。『早修区人物史』によると米室の墓の側面に「画伯鳳遷ヲ師トシ」とあるそうです。「鳳遷」の部分が間違ってないか墓を調べたいところです。改訂版の『伊勢度会人物誌』には巻末に墓の位置が示されており、以前に一度米室の墓を探したことがあるのですが、見つけることができませんでした。探し方が下手だっただけかもしれませんが、無縁仏として片づけられてしまっている可能性もあります。

京都では鳳遷の次に四条派の画家である横山清暉に学びます。この横山清暉の弟子となった伊勢の画家は林棕林、広田篁斎、飯田素亭がいますが、全員上部桃ヨの門弟です。上部桃ヨは岡村鳳水の弟子で、米室とは同門となります。一方『伊勢度会人物誌』上部桃ヨの項では、その門人に米室が加えられています。桃ヨは天明元年(1781)生まれで米室よりはるかに年長(36歳差)ですので、兄弟子というよりは先生に近い関係だったのかもしれません。これらのことから、横山清暉に師事したのは上部桃ヨの斡旋によるものだと考えられます。

『視昔帖』よれば40歳で京都から帰郷しています。数え年で40歳なら安政3年(1856)に伊勢へ帰ってきたこととなります。帰郷後の具体的な活動はよくわかりません。弟子が何人かいます。明治15年(1882)9月19日に死去しました。


◎俳諧

俳諧に関しては、米室が住んだ浦口にいた中瀬米牛という俳人に学んでいます。『伊勢度会人物誌』では俳諧を学んだのは「後年」とあり、京都から帰郷後に師事したと取れる書き方がされています。
『早修区人物史』には「米室」の号は中瀬米牛からとったか、という推測が書かれてます。また、米室ははじめ「蓬壷」と号したようです。これらのことより、上京前に岡村鳳水に絵を習っていた時代に蓬壷と号し、京都遊学の後、米牛に俳諧を習ったため、号を米室と変えた、などとも考えられます。「米室」の号は絵だけでなく俳句にも使用しています。

これらはただの推測です。見た事ありませんが、「蓬壷」号の絵とか発見すればまた色々わかるかもしれません。

他には『三重画人伝』に「俳号を表裏と云ひて冠付にも巧なりしと云う」ともあります。俳号「表裏」の句は一点も見たことがありませんが、冠付の時のみ使った号だったのでしょうか(「米室」号の俳句はあり)。
冠付(かむりづけ)は雑俳の一種で、お題として出された上5文字に下の7、5文字をつけるというもの。上方では笠付(かさづけ)と言ったそうです。「表裏」の号が載った冠付集とかないか、ネットで探してみましたが、デジタルデータは見つかりませんでした。ここでは詳しく調べませんが、『伊勢冠付集』(鈴木勝忠、1990)とか、載っている本があるかもしれません。


◎その他

別称:米室の別称は上記にある通りですが、『視昔帖』に「文修」という字(あざな)が載せられています。

弟子:『度会人物誌』に見える米室の弟子は楠田彩雲(1865〜1931)、黒瀬松琴(1832〜1917)、端館紫川(1857〜1921)、北村豊景(1842〜1888)、笠井啓次郎(1857〜1933)、荘門蕭香(1837〜1870)、藤田蓬壷(1835〜1906)です。ここでは各人について詳しくは述べません。藤田蓬壷は、米室の昔の号「蓬壷」を貰ったのでしょう。笠井啓次郎、黒瀬松琴は『視昔帖』に師・米室の絵画を出品しています。米室は弟子への訓戒として、自分は「三年外出せず、一年風呂に入らずに絵に精進した」と言ったそうです。

子孫:米室の子は誰も画業を受け継ぎませんでした。大正元年時点で、浦口町表通りにその子孫の経営する水溜医院があったそうです。『視昔帖』(大正4年頃)には米室作品の出品者に「水溜延四郎」という名が見えます。この水溜延四郎が水溜医院の経営者かもしれません。




(おわり)

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