(前略)椿堂は三人いて、その流れを汲むという意識のあったことが判明した。明治四十四年七月発行の「稲荷奉額椿堂第三世/暁峰庵香汀嗣号立机祝賀披露句集」という一冊子があり、次のような句が見える。
暁峰庵香汀氏に第三世椿堂嗣号立机させて 第二世 一黙庵椿堂
継ぎかへて末頼母しき椿哉
師椿堂宗匠の譲を受けて
衣更分に過しをかこちけり
二世の一黙庵椿堂を称した椿堂について、今のところ不明であるが、明治四十四年四月二十日に行われた、交吟社での三世立机祝賀会の様子が『披露句集』に伝えられている。
四月二十日を卜して暁峰庵俳仙堂桜上に於て、立机祝賀会及句集開巻興行す。
一 ばせを 竹像 安置
二世椿堂宗匠より譲を受けられたる第一世長峰宗匠の愛重品
一 床掛物 ばせを軸 真筆物 ばせを
やせながらわりなき菊のつぼみ哉
一 花 花器 古道斎作
冷(令の誤か)妹有香理女史の挿花になる青柳に葉蘭の根〆となりしもの
一 香 名、梅が香 京都鳩居堂製
香炉青銅高足鼎形
一 二世椿堂より譲りを受たる品々数点
一 吟声 拘水雅君
正午席定まるや社中一同祝章を呈す。庵主挨拶終て、句集開巻。席上運座句合、立机披露正式俳諧の連歌あり。
午后四時、祝宴、一同歓を尽くし和気暢々の裡に随意退散、遂に十時を報ず。当日は師椿堂師匠の臨席を仰ぐ
筈なりしも、遠隔の地と公職寸暇を不得とにより、見合わせとなりし。
この書の中で紹介されている資料冊子の引用部分は、明治四十四年四月二十日、椿堂の号を第三世が第二世から継ぐことに関するもので、その譲渡する物品や、襲名の祝賀会の様子などが書かれています。
ところで、二世が三世に俳号を譲ったのは、高齢のためではなかったらしい。何故なら、この祝賀会に出席してもらおうとしたが、「遠隔の地と公職寸暇を不得とにより見合わせ」たという。二世は、伊勢から遠い所で公職にあった人物のようだ。もともと伊勢の出身なのだろうが、明治の中頃までに東京に出て、公職に就いていたものか。二世の思いとしては、伊勢を離れて、公職のために種々制約を受ける自分よりは、伊勢在住の俳人に由緒ある俳号を継がせたかったに違いない。
これはその通りだかもしれません。ただし、ここで二世とは浜田椿堂のことです。奇妙な俳号の復帰は、このことがいくらかヒントになりそうです。つまり、椿堂は遠隔の地へ転勤となって号を譲ったが、わけあって地元に帰って来ることができたので、また俳号を返してもらい、椿堂を名乗った、などと想像できます。