三世一黙庵椿堂


伊勢の俳人、一世徳田椿堂、二世浜田椿堂のことはいずれ調べます。
が、その前に、ある書に三世椿堂に関する記述があったので、そのことに関して小ネタをまとまりなくつらつらと。





『俳文学こぼれ話』(岡本勝著、平成20年、おうふう出版、非売品)という本に、浜田椿堂のことに関して書かれている項目が二つあります。その一つ「浜田椿堂のこと」におもしろい資料が紹介されていますので、いくらか省略しながら引用します。

(前略)椿堂は三人いて、その流れを汲むという意識のあったことが判明した。明治四十四年七月発行の「稲荷奉額椿堂第三世/暁峰庵香汀嗣号立机祝賀披露句集」という一冊子があり、次のような句が見える。
 暁峰庵香汀氏に第三世椿堂嗣号立机させて 第二世 一黙庵椿堂
継ぎかへて末頼母しき椿哉

 師椿堂宗匠の譲を受けて
衣更分に過しをかこちけり
二世の一黙庵椿堂を称した椿堂について、今のところ不明であるが、明治四十四年四月二十日に行われた、交吟社での三世立机祝賀会の様子が『披露句集』に伝えられている。
四月二十日を卜して暁峰庵俳仙堂桜上に於て、立机祝賀会及句集開巻興行す。
一 ばせを 竹像 安置
 二世椿堂宗匠より譲を受けられたる第一世長峰宗匠の愛重品
一 床掛物 ばせを軸 真筆物 ばせを
 やせながらわりなき菊のつぼみ哉
一 花 花器 古道斎作
 冷(令の誤か)妹有香理女史の挿花になる青柳に葉蘭の根〆となりしもの
一 香 名、梅が香 京都鳩居堂製
 香炉青銅高足鼎形
一 二世椿堂より譲りを受たる品々数点
一 吟声 拘水雅君
 正午席定まるや社中一同祝章を呈す。庵主挨拶終て、句集開巻。席上運座句合、立机披露正式俳諧の連歌あり。
午后四時、祝宴、一同歓を尽くし和気暢々の裡に随意退散、遂に十時を報ず。当日は師椿堂師匠の臨席を仰ぐ
筈なりしも、遠隔の地と公職寸暇を不得とにより、見合わせとなりし。
この書の中で紹介されている資料冊子の引用部分は、明治四十四年四月二十日、椿堂の号を第三世が第二世から継ぐことに関するもので、その譲渡する物品や、襲名の祝賀会の様子などが書かれています。
これまで初代の徳田椿堂がおり、いくらか時代をおいて、浜田椿堂が二世椿堂をみずから名乗った、ということになっていましたので、このように椿堂に三世がいた、という話は、私も初めて耳にすることでした。

そして、この文中では三世椿堂を浜田椿堂とし、「二世は俳人として高名な一世と、終生伊勢で活躍した三世との間にあって次第に忘れられ、伊勢には二人の椿堂が存在するということになったのだろう。」としています。

しかし調べると、これは誤りだということがわかりました。

まず、冊子中で「第二世 一黙庵椿堂」としています。最初ここを見たとき、一黙庵椿堂は浜田椿堂では・・・と思っていたのですが、初代徳田椿堂も一黙庵でした。
普通は屋号(?庵号?)だけを代々受け継いでいくものだと思います(「神風館」「夜雨亭」など)。また、すぐにはちょっと思い出せませんが、号も親の号を継ぐという場合があったような気がします。そして一黙庵椿堂の場合、屋号も俳号も両方受け継ぐ、という特殊な形をとっています。私は他でこのパターンを見たことがありません。
話はそれましたが、この部分は特に問題はありませんでした。

問題は椿堂三世を受け継いだ「暁峰庵香汀」の方です。本文ではこれを浜田椿堂だとしていますが、実は浜田椿堂以外に暁峰庵香汀は存在します。この暁峰庵香汀と浜田椿堂は両方とも『大正三重雅人史』(松本隆海編、大正5年、三重売文社)に掲載されています。この書は当時存命の文化人を扱った同時代資料なので、間違いの可能性は少ないと思われます(逆に三重県の文化人の記述でよく引用される『三重先賢伝』や『伊勢度会人物誌』は結構間違いだらけだったりします)。
雅人史の2人の項をここに引用します。
俳句家 椿堂 浜田葭汀 宇治山田市宮後町住/慶応元年正月生

浜田葭汀、一黙庵椿堂と号す。又、五午庵独歩庵の称あり。家代々商業を営み、当代に至り教育家たり。俳句に巧みにして明治三十三年に二世椿堂を襲う。其の初は清話庵鴎亭門に二年、次は為豊園耕雨門に六年、あとは老鼠堂永機門に五年の研究を積む。其著に俳諧四季類集、俳諧憲法、宇之宝の花等あり。門下社中甚だ多く天津風吟社、蚯蚓会、何木吟社、和久楽会、天狗会、相友会、社城社、大石会、蛙鳴会、水吟社等とす。


俳句家 香汀 村田佐右衛門 度会郡瀧原村大字阿曽/明治七年七月廿五日生

村田佐右衛門、香汀と号す。暁峯庵香汀これなり。初代村田佐右衛門より十五代、父佐右衛門吟汀と号し俳句を能くしたり。明治二十四年三重県中学卒業の当時より俳句に志ざし、山田の第二世椿堂、津の野田禾節、竹山等に訊ふ所ありて今日の一家を為す。又書画道を雲石に学ぶ。国学漢学を山名吟作、谷安保に従ふ。其率ふる俳句社中に交吟社、瀧シブキ会、紀北二葉会、楽天会あり。茶道は表千家、花道は未生流を行ふ。風流韻事は其の天成に属し、俳句に名吟多く、今や益々研鑽努力を重ねて斯道の隆盛を期しつゝあり。尚地方の名望家に属して瀧原村収入役助役等に挙けらる其他区長学務委員及三重茶業聯合会議員に推されて今に至る。貢献可想也。
この村田香汀が第三世椿堂の暁峰庵香汀です。
しかし考えてみれば、三世椿堂を浜田椿堂と間違うのは無理ありません。なぜならこの俳号襲名の資料はかなり奇妙だからです。

まず、浜田椿堂は雅人誌によれば「明治三十三年に二世椿堂を襲」い、冊子の明治44年4月20日に村田香汀に第三世一黙庵椿堂の号を譲ったことになります。しかし雅人誌の大正5年にはもう「椿堂 浜田葭汀」と、再び椿堂を名乗っています
もし三世椿堂「暁峰庵香汀」という人物が他になければ、当然この三世が以後の時代にも活躍している浜田椿堂のことだと思うでしょう。一旦譲った俳号は、どうしてまた返却されたのでしょうか。しかもそれから5年しかたっていない雅人史の2人の項では、そのことには全く触れられていません。不思議なことです。
この辺は、また浜田椿堂に関する資料が出てきたら注意したい点です。




その修正を踏まえながら、この冊子の資料を少し見てみたいと思います。

まず、祝賀会が行われた「交吟社」は、雅人史より村田香汀の主宰する俳句の会だということがわかります。
冊子引用部分の最後の方にある「一 吟声 拘水雅君」の「拘水」は、冊子の印刷ミスで「掬水」じゃないでしょうか。嶽尾掬水は明治8年生まれ、志摩郡磯部の人。例の文珠会のメンバーで、耕雨の門人です。
また、資料の俳号継承について、『俳文学こぼれ話』に以下のようにあります。
ところで、二世が三世に俳号を譲ったのは、高齢のためではなかったらしい。何故なら、この祝賀会に出席してもらおうとしたが、「遠隔の地と公職寸暇を不得とにより見合わせ」たという。二世は、伊勢から遠い所で公職にあった人物のようだ。もともと伊勢の出身なのだろうが、明治の中頃までに東京に出て、公職に就いていたものか。二世の思いとしては、伊勢を離れて、公職のために種々制約を受ける自分よりは、伊勢在住の俳人に由緒ある俳号を継がせたかったに違いない。
これはその通りだかもしれません。ただし、ここで二世とは浜田椿堂のことです。奇妙な俳号の復帰は、このことがいくらかヒントになりそうです。つまり、椿堂は遠隔の地へ転勤となって号を譲ったが、わけあって地元に帰って来ることができたので、また俳号を返してもらい、椿堂を名乗った、などと想像できます。
冊子に「公職」とあり雅人史に「教育家」とあるので、教職として遠隔地へ赴任し、そこで地元への転勤願いが認められた、とかそんな感じでしょうか。この辺りも以後の浜田椿堂資料で注意したいところです。


こぼれ話では、「椿堂は三人いて、その流れを汲むという意識のあったことが判明した」そして「(椿堂)一世は文政八年の没。没年から明治までは四十余年。俳号を譲った明治四十四年、二世は五十歳前後か。そうなると、二世は一世の血縁か何かの関わりで、二世を名乗るようになったと考えるのが妥当だろう」とありますが、二世は浜田椿堂なので、残念ながら今の所、流れを汲むという物証はありません。
一世は文政八年(1825)没、二世は慶応元年(1865)生まれで時代はだいぶ間隔があり、住んでいる地域も山田の宮後と宇治の古市なので近くはないです。
というわけで、結局どうして椿堂二世が一世の号を受け継いだのかはわかりません。

神風館の場合、襲名するときに、「神風館」の印象や歴代の古跡物など、色々な什物を受け継ぎます。ところが、冊子資料では椿堂三世が受け継いだ品物で、一世に由来するものは
一 ばせを 竹像 安置
 二世椿堂宗匠より譲を受けられたる第一世長峰宗匠の愛重品
のみです。目録にも一番最初に書かれていますし、一世に関する物がこれしかない、ということはこの芭蕉の竹像が何か浜田椿堂が俳号を継ぐきっかけになった品物なのかもしれません。




(おわり)

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